ルサンチマン
どうも。燦太郎です。
最近、私の周りをずっとぐるぐる回っている言葉、それがルサンチマンです。
哲学者ニーチェが使ったことで有名な言葉ですね。邦訳では怨恨。わかりやすく言うと、恨み、つらみのことです。
人間が人間に対して起こす悲劇の95%はルサンチマンが原因なのではないかと思うのです。
ニーチェの言う奴隷道徳ももちろんそうですが、私が今研究している全体主義におけるユダヤ人の排斥だったり、ニュースになっている京都アニメーションの放火だったり。
本当に、ダークな感情というのは恐ろしい程の力を人間に与えるのだと改めて戦慄します。
感情が原因の行動というのは良い場合でも悪い場合でも、その原因が感情であるので、
ある程度一般理論化できたとしても、みんながみんな理解できる理屈に落とし込めません。
マッチを擦ったら火が出る、といった具合にどんな人間にも当てはまる理論が感情にはないのです(このことこそ、人文科学を学ぶ意味を表していると思います)。
今回の京アニの事件でも、ニュースでは現段階では建物の構造とか、火の回り方などが中心に放送されていて、これから犯人の動機について詳しく報道してもらうことを期待します。
そして、この人物は異常者です、だけで終わらせてほしくない。
今回のみならず、犯罪者に対する世間の態度で、精神異常だったとか、自分は理解できないことは病気かなにかに落としこめるのをよく見ますが、それは何の解決にもならないのではないかという疑問が以前からあります。
以前テレビ番組で、自ら殺人を犯しそうになったけれども、カウンセラーの方の一言で殺意が収まったという人の特集を見ました。その方はごく普通のサラリーマンで、当時はうつ気味でしたが、特別な精神病などを患っていない人本当に普通の人でした。
他人事のように思うかもしれないけれど、実際周りにそういう人って少なからずいるのではないでしょうか。
人に対してムカついたり、恨んだり、そういう感情は誰にでもあります。
その度合いは人それぞれ違うのです。みんな一律なんてありえません。
そういう違いを理解して、単に精神異常として排斥するのではなく、どうしたらその感情が少しでも和らぐのかということを一人一人が少しでも考えて行動していけば、自分の身の回りにある犯罪の芽を潰すことができるかもしれないと、私は割と真剣に考えているのです。
もちろん、全員が精神カウンセラーにはなれませんし、なるべきとも思いません。
ただ、他人を自分と同じ感覚のフィルターで通しすぎると、他人の存在そのものを否定することになりかねませんし、
それがつもり積もると、社会からの疎外が生じて、社会に対する恨みから大きな犯罪を犯すケースはありそうです。
大袈裟かもしれませんが、たった一言で殺意が芽生えたり、逆に犯罪の抑止力になったりするわけですから、「この人は自分と違うな」と気づいたその後の行動というのが、私達に試されているように感じてしまいます。
当然、私は犯罪者を完全に擁護しようとは思っていませんし、適切に罰するべきです。
何が何でも、無罪の人を殺すのは間違っています。殺して良い理由がないからです。
ましてや、多くの人に生きる希望を与えてきた才能あるアニメーターの方々を殺すなんて、本当に信じられません。
でもこれは、信じられないほどに、人間のルサンチマンも恐ろしいという1つの暗示なのだと思います。
そして今回の事件を受けて私達は、表面的な犯罪抑止だけではなく、人間の感情という根本に立ち返って、もう一度しっかりと考える必要があるのではないでしょうか。