燦太郎の日記

思ったこと、感じたこと、考えていることを自由に書いています

脱皮

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

久しく更新してませんでした...脱皮中だったもので。

つまり、病み期から脱したということです。

今日はそのことについて書きたいと思います。

 

 

 

 

前回のツイッターやめたという記事からも、なんだか荒んだ空気を感じられた方もいるかもしれませんが、今回の病みは相当なビッグスケールで訪れました。

これといったきっかけはなく、今まで積もってきた色々なものが爆発したという表現が一番的確だと思われます。毎日ではありませんが、2日に一回くらいは泣いてました。

本当にしんどかった。

 

 

 

その病みの根源というのはズバリ、「何事も心から楽しめない」ということです。

え、あなたこれまで散々ライブとかいってるし、好きな哲学の勉強して、音楽して、めっちゃ充実してるやん!って思いますよね。その通りなのですが、そんな中でも急な虚無感が襲ってくることがしょっちゅうありました。

「自分なんのためにこれやってんのかな」とか。

何かをやっている間に別のことを考えてしまい、「あれもこれもやらなくちゃ」となって、あれ、今私何してたんだっけな...とか。

前々から書いている「義務感」もどうしても抜けなくて、週5、6でバイトしなくちゃいけないのは家計が厳しいせいだとか、自分が演奏が下手なのは才能がないからだとか、自分がしんどくなるとすぐ何かのせいにしてしまう癖が抜けずずっと過ごしていました。

 

 

 

 

ブログとかで、こういう生き方はいいとか、人間こうすべきだな、とか書いてはいるものの実行に移せていない自分も嫌になって、ハイパー・ネガティブモードに突入しました。

このモードに入ると、私の中のネガティブ翻訳が起動し、あらゆることをとても上手にネガティブ変換するのです。

そして、その変換の行き着く先は「自己卑下」です。

自分がやりたいと思ってやっているにも関わらず、その自分に自信が持てないから、自分のやっていることもどんどん疑わしくなってきます。

 

 

 

 

でも今回は本当に変わらなきゃって思いました。まさに永劫回帰で、ずっと同じところでぐるぐる回っているのはもうしんどすぎて。

そこでまず、なんで自分に自信がないのかということを考えました。いろんな人の考え方も取り入れてたどり着いた原因は、

自分の意思はあるのに、あらゆることの評価の基準を自分の外に持っている、ということだったようです。

 

 

 

 

こういうことしたい、やってみたい、という欲はあるし、そして意思もある。だからここまで音楽とかも続けてこれたのだと思います。でも、そのやっていることを全て外部の評価基準に照らし合わせて考えていました。

音楽をやるのも、人に褒められたいから。

ブログを書くのも、人にすごいって思われたいから。

週6で働くのも、人に偉いねって言われたいから。

こういう動機もいいとは思います。でもそれはもとから外部の評価基準を望んでいた場合のみです。

 

 

 

 

インスタでいいねが欲しい人たちは、いいねをもらうためにタピオカの写真を投稿するわけです。それで完結です。

でも私の場合、もともとタピオカを食したいという意欲があってタピオカをゲットしたのに、時代の流れに乗って写真を投稿して無視されたら、なんでみんないいねしてくれないの?というような状態。

タピオカを食べた時点でまず満足するっていう感覚を忘れかけていたんです(なんかこの例わかりにくいですねすみません...)。

 

 

 

 

自分の中で何かがずれていたんですよね。きっと。

自分のためにやっていることの評価を人に求めるって、根本的におかしいんだなってやっと気づきました。

すごいジャズメンも、もちろんプロなので観客のことを考えてはいるでしょうが、

まずは自分の納得できる音楽を追求するっていう姿勢があると思います。

今、ジェイコブ・コリアーという凄い才能に溢れたミュージシャンにハマっていて、彼のインタビュー(日本版)を色々読んでいるのですが、大抵「すごく楽しかたよ!」「これは刺激的な経験だったな」といっています。本当に純粋に音楽が楽しくて、追求したらここまできちゃった感。評価って後からついてくるんだなって本当に実感しました。

 

 

 

 

彼は天才だからとか言って、今までだったら凹んでたところですが、人といい意味で比べないということを学んだので、もうそれも脱しましたね。

「人と自分は違う」「みんながみんな違う」と思えばかなり楽になります。

私は電車の中でパリピ女子高生を見てもなんの羨ましさを感じないのですが、その理由は明らかに「この人と私は違うし、こうなりたいとも思わない」ということです。

これはディスってはいません。ご飯と小麦粉ぐらいの違いがあるということです。

その違いを自分の中ではっきり明確にすると、他人にイラつくこともなくなるのでこの考え方は精神安定に一役買っています。

 

 

 

そして、この変革の成功は哲学のおかげでもあります。

私の尊敬する哲学者であるニーチェの思想の一つに、「貴族道徳」と「奴隷道徳」というものがあります。

貴族道徳は、ニーチェが理想とする生き方で、

自分の中にしっかり基準と誇りを持って、自分の生を肯定する生き方です。

対して奴隷道徳は、

他人と比較した上で、自分を評価する生き方です。これはあの有名なルサンチマン(怨恨)とも繋がる考え方です。奴隷道徳を生きる人は、他人を見て、あの人たちよりは自分たちは優れているという風に思考します。

つまりわかりやすく言えば、評価結果は同じでも、評価基準のあり方が絶対的か相対的かということなのですが、

ニーチェは自分の意思に素直に従って、誇りを持って生きよと唱えます。

これは自己中とか、そういう凡人がすぐに思いつきそうな低レベルな反論をはるかに超えた生き方です。

ニーチェは、貴族道徳に生きているように見せかけて実は自分の軸がぶれぶれな奴隷道徳を生きていた私に弱い自分を気づかせてくれました。

 

 

 

 

いろんなことの箍が外れて、かなり心が軽くなりました。

そりゃあもちろん、まだまだ考えることはたくさんあって、悩むことがなくなったということはありませんが、そうやって悩んでこそ成長できるんだというワイドな視点で自分を見ることができるようにもなりました。自分で自分のことをしっかり愛せるようになった気がします。やりたいことにダイレクトにぶつかっていけるようにもなりました。やること自体はそんなに変わっていないのですが、見違えるほどに自分の精神状態が変化したので、やはり根本的な思考の癖や思想は人間にとって重要なんですね。

 

 

 

なんだか自己啓発本みたいな内容になってしまいましたが、自分自身この変化を忘れないためにも書いておこうと思いました。ブログもちょこちょこ再開していきたいと思っています。最後まで読んでくださってありがとうございます。