燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

どうなる?外国人労働者受け入れ

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

今日のバイト帰り、電車内で若いベトナム人(かどうかは定かではないですがおそらく)のグループが近くにいました。若者特有の騒がしさなのか、それとももともと声が大きい方達なのかはわかりませんが、喋り声(ベトナム語)が結構車内に響いていました。

私が立っている前で座っていた気難しそうなおじさんを始め、何人もの人がそのベトナム人たちをチラチラ見ていました。その若者たちが日本人だったら、おじさんは注意していたかもしれないけれど、みんな何も言わずただうるさそうな態度をとっているだけでした。

 

 

 

 

 

まあ普通ならそのうるさいベトナム人のマナーが悪いという意見が大半でしょうが、そもそも日本のマナーを彼らは知っているのかということがとても疑問です。ベトナムでは、大きい声で話すことはそこまで気にならないことなのかもしれません(国内でも、関東の人からしたら、関西の電車の中はとてもうるさく感じます)。

だから彼らに悪気は全然なかった可能性が非常に高いのです。

そして面白いことに、日本人の必殺技「空気読めという空気をだす攻撃」が、彼らには全く効いていないではありませんか!!

 

 

 

 

そう、つまり、こうした日常感覚的な問題は、今回の外国人労働者受け入れにダイレクトに関わってくるというのが今日のお話。

単純労働が過酷だとか、家族同伴で日本に滞在できるかとか、そういう問題はニュースでよく取り上げられていましたが、それ以前に、日本独特の空気感とかモラルとか、そういうところで歪みが生じてくるということはなぜあまり報道しないのでしょうかね...

 

 

 

 

 

日本の考え方などを理解していたり、共感する外国人のかたも多くいるとは思いますが、日本人ですらあまりよくわかっていない謎の空気感というものを読み取るのはかなり難しいのではないかと思ってしまいます(アジア圏なら似たような空気感なのでしょうか?)。

そして逆に日本人側も、空気読め攻撃が通用しないとなると、もうなすすべなし、どんどんフラストレーションが溜まっていく人もこのままだと増えていきそうな予感。

外国人というだけで、居住の受け入れを拒否する住宅が多かったり、そうした表面的な拒絶はないにしても、私たちはずっとほとんどが日本人の中で生活してきたわけですから、別の文化をルーツに持つ人が急に増えることに対する耐性がほぼないと言ってもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

ここで、私個人が排他的な考えかと言われれば、そうではありません。政府は表面的な方策ばかり考えているけれど、内面的な考えが欠如しているように思っているのです。

他の国が移民を受け入れているというのは日本にとってはあてにならない気がします。

欧米諸国のスタンスと、日本の集団力大好きスタンスとはかなりの違いがあると思いますし、私たちが想像している以上に、私たちは外国人を受け入れる心の準備ができていないのです。気がつけばどんどん知らない言葉を話す人が増え、どんどん自分たちの居心地が悪いと感じている日本人が増えていることは、大量の中国人観光客がいる街ですでに実証済みです。

 

 

 

 

 

表面的な体制を整えて、どれだけ賃金をあげても、そうした表には出てこない人間の繊細な心情に負担がかかると、結局は大きな問題につながるのです。日本人の多くは我慢して耐えるのに慣れてしまっていますが、日本のルールを教えてもらっていない、知らないという外国人の態度に対してストレスがたまり、それが限界を超えればすぐに外国人排斥運動が出てくるでしょう。これが日本のルールたるものを打ち壊すいい契機になってくれればいいのですが、なかなかリアリティはないのではないかな...

 

 

 

 

なぜ日本の政治はいつも、制度とその内実(人間の精神的な面)を分けて考えようとするのでしょうか。結局商業的で、中身が空っぽなことを決めている印象はぬぐえません。

文学部を縮小して、あまり必要ないというレッテルを貼ったら、人文科学の専門分野である、こういう内面的で繊細なところで痛い目を見るに違いないなと思う所存です。