燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

文系学問のあり方

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

この間、某東大教授の発言がTwitterで話題になっていました。知ってる方もいるでしょう。

その方は社会的な活動家でもあり、問題となった発言は、「自分に不利な証拠は発言しない(隠す)」というものでした。

この発言に対して、学者としてどうなのかということが問われていました。同時に、自分の社会運動のために学問を利用しているのではないかという声も。

理系の学問であれば、必ず証拠を出し、徹底的な分析によって真理に近づくというプロセスを取るにも関わらず、証拠を隠すだなんて学問として文系は大丈夫なのか?という意見も見ました。

 

 

 

 

 

 

 

これに関しては色々思うことがあります。

理系の学問の価値観を文系の学問にそのまま適応させるのはなかなか無理があると思います。確かに、科学というものは普遍的な真理を追求します。数学の場合だと、三角形の内角の和は180度である(ちゃんとした平面の場合です)というような絶対的な真理を求めます。

 

 

 

 

 

でも、社会学や哲学はそうはいきません。宗教や文化など、人それぞれに真理がある場合を扱うからです。絶対的な真理といえば、「人それぞれ異なった思想や真理がある」という真理です。理系は一種の統一された世界観のもとでの真理探求ですが、文系はバラバラの世界観を、争いなく多様性を保つにはどのようにすればいいかを考えます。また、ある1つの考え方(〇〇論)の維持のために研究を重ねたりもします。

 

 

 

 

 

なので、色んな考え方を世界に留めておくのが文系学問の役割の1つだと私は考えています。

そうなると、当然色んな意見の対立が起こるのは当たり前で、持論に不利な証拠があるからと言ってその論をこの世から消すことは正しいとは思いません。

もちろん、論文を書く際にそうした不正はいけませんが、今回の件は自分の活動の上での話なので、この話だけで一概に学者として終わっているといは言えないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

世間では文系学問が圧縮され、理系分野が重宝される時代です。でも全員がその価値観では危ないのです。お互いがバランスよく支え合い、時には対立することによって学問は進展していくと私は思います。