燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

「正しさ」と世間

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

今回は頂いたご意見について書かせていただきます。

質問してくださった方のご意見を簡単にまとめると、この世の中、「正しい」とされていることに対して反対の意見を述べにくい風潮があるということ。

そして、SNSが大衆の思考形成に大いに関わっているのではないかということ。

素晴らしいご質問をありがとうございます!

まさにこれは今私たちが強く考えるべき議題ですよね。

 

 

 

 

 

以下私の意見を述べていきます。

まず、「正しい」という言葉がどのようなレベルで使われているかによって、この話は大きく変わってきます。

例えば、「人殺しはいけない」と言うことは世間一般では「正しい」とされています。

もし日本で人を殺したら、それは「不正」な行為となり、罰せられます。「不正」を罰して排除しようという動きはある意味当然のことで、その社会の秩序を守るためにどうしても必要なことになるのです。

 

 

 

 

 

一方、芸能人のニュースなどでよく見る、「不倫」について(これも法に触れる問題になり得ますが、とりあえずここではもっと簡単で表面的な意味で使います)、

「別に不倫ってそんなに悪くなくない?」と言う意見を出したら非難轟々。

(質問者さんがおっしゃっているのはどちらかといえばこうした例に近いものなのだろうと勝手に解釈しているのですがお間違いないでしょうか...?もし違ったらもう一度ご意見ください...)

不倫を肯定する意見を述べたらSNSで叩かれたり、人としてあり得ないと言うレッテルを貼られたり。そうしたことは頻繁に行われますよね。

 

 

 

 

 

 

 

正しさにも色々あって、「人を殺してはいけない」というような、ある意味私たち人間同士が共通する感覚が多い正しさもあれば、

自分の気持ちを全面に出す恋愛が正しいとする考え方や、駆け引きすることが恋愛の正しいやり方だという、人それぞれな正しさもあるわけです。

そして、自分が正しいと思うことに反する意見に対して強く攻撃する人は、先に書いた「それぞれの正しさ」を「絶対的な正しさ」として捉えて、ほかの正しさの選択肢を排除して自分の正しさを「正当化」することに必死になっている人が多いでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

もちろんそうした強い対立が必要な場所もあります。しかし、とても嫌なやり方で反対意見に噛み付く人は、とにかく「正当化」にムキになっていることが多いですね。私の周りでも、まあよくもこんなに人の考えを受け入れないものだという人はいます。

幅広く意見を取り入れる人も多くなってきている気がしますが、なぜ世の中に排他的風潮が残るのかということについては、日本の教育のシステムにも一つ理由があるのではないかと私は考えています。

 

 

 

 

 

この間、NHKの番組で、道徳教育本格化導入に向けての教師の実態を取り上げたドキュメンタリーを見ました。小学校の道徳の授業で、多数派の意見とは違った意見を述べた生徒がみんなの笑い者になり、その子は悔し涙を流すのですが、そうした風潮がすでに小学校で形成されているのです。教育の方針として、幅広い考え方を養うというようなことが挙げられていましたが、教師もその泣いた生徒のフォローがしっかりとできませんでした。

幅広い考え方を教えるという目的で授業をする前に、

様々な考え方があって良い、いろんな意見の人がいて、そういう人たちと共存していかなければならない

という考え方の土台が出来上がっていないことが原因の一つではないかと思います。

幼稚園でも、お絵かきの時間で「青色のりんご」を描いた園児に対し、

先生が「りんごは赤じゃないとおかしいでしょ。間違っているよ」というのと、

「素敵な色だね。でもどうして赤じゃなくて青にしたの?」と問いかけるのでは全然違うように、日本の教育はどこか模範例を「押し付ける」ような教育制度のように感じます。

 

 

 

 

 

 

そうしたこともあり、世間体で「正しい」とされていることに対してSNSなどを通じて大勢の人が群がり、反対の考え方を徹底的に攻撃するのではないでしょうか。これは究極なところ、空気を読むのが大好きな国民性所以かなと思ったりもするのですが。

空気を読まない奴は排除、みたいな風潮がありますが、空気の前にまずもっと分析的に物事見て話し合わないのかな?と思うことはよくあります。

そういう意味でSNSの影響力は絶大だと思いますよ。みんながいいねしてるから「良い」と思っている人もゴロゴロいるでしょうし。この世の中で、何が正しいか、正しくないかなんていうのは、大衆の意見によって決まることがほとんどです。

正しさの基準を数で捉えている人が大半と言っては言い過ぎかもしれませんが、なぜそれが正しいかと考える人は少数で、大半の人にとってはその空気感や数が正しさの論拠になるわけです。

 

 

 

 

 

 

長々と書いてしまいました。

正しいと思われるものに反する力を鎮めようとするのは自然なことではありますが、

相対的な価値観のあるものに対しても、そのいやらしい鎮め方だったり、空気読まなきゃ病が現れることについては本当にナンセンスだと思います。

(私はそうならないために自分に哲学を課しているところは少なからずあります)

欧米諸国のように、まずは個人!自分の意見!というような国だったら、いろんな考えが錯綜している状態がむしろ当たり前で、ぶつかることが当然だという風潮があるのでしょうが、頑張って大衆を囲みたい日本に欧米スタイルが会うのかどうかは少し疑問です...