燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

「目が良さそう」

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

私はコンタクトユーザーなのですが、よく、

 

「え!!コンタクトしてるの?!ずっと裸眼かと思ってた。」

 

と言われます。

 

 

 

 

 

 

 

え、なんで?裸眼って誰にも言ったことないんだけど?というと、

 

「なんか目が良さそうだから〜。」

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも、そうかな?とか、へぇ...と返すしかないんですけれども、

 

目が良さそうな見た目ってなんだよ!!!!

 

と心のうちでは思っています。ムカついているとか、怒っているとかでは全然なくて、その根拠が一体どこにあるのかということが気になって仕方がない。

 

 

 

 

 

かなりの確率で、目が良さそうと言われるので、そこに何か共通認識的なものがあるのか?と思ったり。つまり、私のような顔立ちの人は大体目がいいという生物学的な(あるいはまた別の)根拠があるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

仮に、私のような顔立ちの人は大体目がいいという何かしらの根拠があるとしたら、次にその根拠はどこから手に入れたのか?という疑問が浮かび上がります。

 

 

 

 

 

 

これについては、私は二通りの方法があると考えます。

一つは、これまでの経験上、私の顔立ちに近い人が高確率で視力がいいというデータ、もしくは、その逆のデータ(これまで出会った目が悪い人が、私の顔とは正反対のタイプ)が蓄積されている場合。つまり、経験から得たデータによって根拠を導き出したとする「経験主義的」な方法。

 

 

 

 

となるともう一つは、この根拠が生まれた時からすでに与えられていた場合。つまり、先天的(哲学用語ではアプリオリと言います)にその根拠が私たちの理性に内在しているから、私のような顔立ちの人は目がいいという判断をするという方法。

 

 

 

 

 

 

これらはいわゆる「経験主義(後天的)」と「合理主義(先天的)」という、哲学においてかなり有名な二項対立のモデルです。一見、前者の方が当たり前のように思いますが、突き詰めて考えると、経験をかき集めても根拠にはなり得ないんですよね...

経験は無数に存在するので、経験のみで決定的な根拠を示すことは不可能に近いのです。でも、後者も後者であまり実感がわかない人も多いのでは。

 

 

 

 

 

ここまで書いて、目が良さそうな話題からこの話によく持ってきたな...と自分でも思っているのですが、何気無いことでも、こうやって考えてみると人生楽しいなと、哲学を学んでいると思います。

 

 

 

 

 

私がなぜ「目が良さそう」なのか。これについては、また新たな見解が見つかり次第、研究発表させていただきます。