燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

優しさとエゴ 続き

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

今日は昨日の記事で触れた優しさの質の違いについて書きます。

もう一度確認しておきますと、エゴ無くして優しさなし。つまり、優しさは最終的に自分のために生じるというのが私の考えです。自分の利益は関係なく、相手のために尽くすだけの優しさは存在しないということを昨日主張しました。

 

 

 

優しさの質の違いについて、私なりの結論を先に申しますと、そのポイントとなるのは

 

自分のエゴを通すとき、相手の立場をしっかり考えられているかどうか

 

だと思います。このことについて少し詳しく述べていきますね。

 

 

 

 

さて、皆さんにとって優しい人とはどんな人でしょうか。

私のバイト先の人に、自分の後輩に強く注意をしない人がいます。接客をしていてもサービス精神がありますし、いろんな人の話を聞いてくれるいい方です。でも、自分が不満に思っていても決して怒らないのです。自分が我慢して、相手が不快に思わなければそれでいいと思っているのかもしれません。世間的にはこういう人も優しい人に分類されるのでしょうが、個人的にはそれはあまり良くない優しさだと思います。

 

 

 

 

というのも、その優しさの裏には、「自分は周りから嫌われたくない」という思いが透けて見えるからです(実際にその人は極度の寂しがりだと自分で言っていました)。これはエゴでも、相手のことを全く考慮に入れていないエゴです。もし相手が自分を不快にさせることをした場合、自分以外の人に対しても同じことをして、その相手の周囲からの印象がどんどん悪くなってしまうかもしれません。相手のことを思うなら、今後同じことが起こらないようにしっかり注意するべきです。

 

 

 

しかし注意できない人の中では、

 

相手のこれからのために注意する決意<自分が嫌われることに対する恐怖

 

となってしまっているのです。相手の今後がどれだけ大変になっても自分が嫌われないことの方が大切。これは自己利益実現の過程で相手のことを十分考慮できていない優しさです。

 

 

 

では本当にいい優しさとはなんでしょうか。昨日も例にあげましたが、大切な人にプレゼントを渡すときや、困っている人を手助けしたとき。自分にとってのプラスは、相手が喜んで初めて生まれるものです。すると自ずと、どういうことが相手を幸せにするのかということにアンテナが向くようになります。

もちろんこれもエゴから出発した優しさなのですが、ゴールまでに優しくする相手の立場に立って、相手の喜びをしっかり考えています(こういうことを全く考えられていない人の優しさが、お節介な優しさということになります)。

 

 

 

 

まとめますと、優しさのゴールはエゴであることに変わりはないけれど、その途中の段階で相手のことを自分のことかのように考えられるかどうかで、優しさの質が随分変わるということです。

長々と書きましたが、これが今の時点で私が考える「優しさ論」です。これからもっといろんな経験をして、いろんな優しさに触れていくことができたらいいなと思います。