燦太郎の日記

思ったこと、感じたこと、考えていることを自由に書いています

Brad Mehldau Trio!

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

ついにこの日を迎えることができました!

待ちに待ったブラッド・メルドー・トリオの関西公演です!!

 

 

 

 

ジャパンツアー2019が決まった時からずっと楽しみにしていたので、生で聴くことができてとても幸せでした。

メルドーのようなクラシカルな響きを持つピアノは、ホールとの相性もバッチリ。

アンコールを計3回もしてくれて、ボリュームたっぷりなライブでした。

 

 

 

 

トリオライブの醍醐味は何と言っても3人のバランスを感じること。

このトリオはバンドの色がはっきりしていて、トリオでは珍しく、3人とも似たように知的な印象を受けました。メルドーが緻密に繊細に作り上げた世界観を、リズム隊は決して崩すことなく、そしてさらにその世界が広がるようにしっかり支えているのを感じました。

 

 

 

 

最近リリースしたアルバムでジャズファンを唸らせているラリー・グレナディア、本当に素晴らしかったです。一曲目のイントロで、まず音がすごく良いと感じました。そして、流れもとてもよく、聴いていてとても気持ちがいいベースでした。長年メルドーと一緒にやっていることもあり、飾らない自然な感じがかっこよかったです。

 

 

 

 

そして私が一番印象に残ったのはジェフ・バラードのドラム!CDで聴いている時はそこまで気にしていなかったのですが、ライブでは彼から目が離れなくなってしまいました。もちろんソロが興味深かったというのもあるのですが、何より緊張感がずーっと続いているようなバッキングです。

まるで、水がパンパンに入った水風船みたいな緊張感だと思いました。割れそうで割れないギリギリをいく感じが...

普通に刻んでいても、急にぐわっとスネアで持っていたりする箇所があって、本当はもっとパワーでガツガツ叩くことができるけれども、しっかり状況に合わせてコントロールしている様子に知的さを感じました。脳ある鷹は爪を隠していて、たまにちらっと爪を見せるイメージです(どんなイメージやねん)。

 

 

 

 

 

メルドーのピアノはもう期待通りに素晴らしかったのですが、特によかったのはバラードです。ホールに一音一音響き渡ることをしっかり頭の中で想定しながら紡ぎ出していくその音が、もう本当に美しくて。しびれましたね。

あと印象に残ったのは、彼の左手の使い方。これまで見てきたピアニストの中でも圧倒的に左手をメインとして多く使っているように思いました。右手で細かい音を弾きながら、左手で中低音のゆっくりとした旋律を弾くシーンが何回かありましたが、ここにはとてもバッハを感じました。パイプオルガンで同じテーマを重ねていく過程で、低いメロディーが途中から入ってくる様子はまさにメルドーのプレイと似ているのかなと。

それにしてもメルドーの魅力はその音使いにもありますが、私はその組み合わせ方にあると思います。ソロの時でも、バップのフレーズが聞こえてきたかと思えば、次の展開でクラシカルになったり、一息でいろんな表現を見せてくれます。そういういろんな要素をかなり細分化した上で、流れに乗せて組み立てていくのは彼のセンスでしかできないことだと思います。

 

 

 

 

 

曲が終わって叫んでいた熱狂的なおじさまがいたり、はたまたとても若い人がいたりと、客層も幅広くてよかったです。

ちなみに一番驚いたのはメルドーの椅子の高さががめっちゃ低かったことです...

彼のこだわりが見れてよかった笑

 

 

結論:美味しいものには勝てない

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

最近また倹約しようと思いまして、バイトのお給料や必要な出費の計算をし、再度お金の使い方を見直し。

 

 

 

ついついしてしまう本の爆買いを控えることを決め、衝動買いもなるべく控えるようにしているのですが、どーうしても譲れないのが「食」です。

 

 

 

TVのボンビーガールとかを見ていると、食事をうどん1玉で何日も過ごす生活をしたり、1日パン1つだけなど、かなりの節約生活が紹介されていますよね。

たまに、お腹が膨れれば食べるものにこだわらないという人がいますが、私は食べたいものを食べないとストレスがめちゃくちゃ溜まってしまうんです…

 

 

 

食べ物に我慢するのが嫌なんだと思います。

ラーメン食べたい!と思ってラーメンを食べるときの一口目って、もうそこに幸せが凝縮されている感じがしませんか??

この幸せを感じれるチャンスをなるべく逃さないようにしたい…

 

 

 

そんな食にお金使ってたら倹約できてるのかという疑問も聞こえてきそうですが、

割と食べたくなるものがチープなものだったりするので、そこはナイス平民腹です(笑)

逆にそこまで食べたいものがないときは、自分で握ったおにぎり食べたりして、なるべく支出を抑えることでバランスをとっています。

 

 

 

自分が困窮していい食生活ができなくなるのが本当に嫌なので、食べたいものを食べるために将来ちゃんと働こうという決意は堅いですよ!

あとは食べたいものをパッと作れる料理の腕も欲しい〜

 

 

 

ちなみに今クリームシチューがめっちゃ食べたいです。以上!

教育に体罰は必要か?

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

Youtubeでたまたま見つけた討論が面白かったので今回書いてみることにしました。

教育に体罰は必要かということについてです。

 

 

 

現代の意識からしたら、体罰なんてとんでもない!と思う方も多いでしょうし、実際私は義務教育において体罰を禁止されている世代なので、先生から体罰を受けたことはありません。

体罰指導を受けて自殺したり、そのまま大怪我に繋がったりというニュースも多い今日においては、体罰反対の動きが主流となっています。

 

 

 

しかし、討論する番組が成立するということは、もちろんそこには体罰賛成派がいるということです。ここが議論や討論のいいところですよね。世間では厳しい目で見られている反対派もこの場では対等に扱うことができますから、やはり議論や討論の意味はゼロではないと思います。

 

 

両者の主張を見ていきますと、

まず、体罰賛成派の意見としては、人間が成長するためにはまず生命力を養わなければならず、体罰である意味の恐怖を与えることによって、その恐怖から逃げず、それに打ち勝とうとする力を身につけさせることが大切だというわけです。

現代の教育において教師がそうした圧力を失っているため、その結果として若者のニートが増えたり、社会復帰できない人つまり、社会の理不尽さに耐える力が無い人が増えているというのが賛成派の主張です。

 

 

 

一方反対派は、教師が生徒に愛情を持ってちゃんと向き合えば、体罰は必要ないというのが究極的な答え。体罰は暴力であり、それは平等に与えられた人間の権利を侵害するものであるということです。そして、体罰で人が死んでいるのだったら、やはり体罰は良くないというのがその主張です。

 

 

 

まず前者の方から検討してみましょう。

この生命力論に関しては、私は一理あると思います。現代の若者は打たれ弱いとか、すぐに会社辞めるということに関してはいろんな要因があるとは思いますが、耐える力が無いというのは紛れもない事実でしょう。

こういうときに私はすぐにニーチェ大先生の提示する「貴族道徳」の思想を思い浮かべてしまうのですが、まあそれは置いておき。

なぜ忍耐力が無いのかについては、あまり自分が不利な境遇に立たされたことがないということが原因の一つにあるかと思われます。

 

 

 

 

教育において、実際に私たちの世代は甘やかされて育ってきたのです。

私が小学校のとき、先生に対してすごく舐めた態度をとっている生徒はたくさんいましたし、それで授業が進まなかったりもするのですが、それに対して先生は効果もない注意を連発するだけ。教師を辞めさせる生徒もいました。

私は小学生ながらに、もっと抑止力があればこうはならなかったのにと思いました。

 

 

 

子供に考え方を押し付けない、権利を守る自由な教育を!という綺麗事を「悪」として語る体罰賛成派の先生が主張することの意味を理解するためには、

学校教育が社会を教える場であるという根本をまず知らなければなりません。

なぜ集会で整列して話を聞くのかといったときに、これはまさしく組織をスムーズに動かすための一つのモデルであり、小さい頃から教えられることで、身につくようになります。こうした社会を動かすためのプログラムをこなすための教育の役割も大きいのではないでしょうか。

ここで賛成派の先生の主張のポイントは、まず叩き込ませる。そして理解は後からついてくる、ということ。もちろん初めから分かって行動できる子もいるでしょうが、それができない子に対してはまず体で覚えさせないと、社会に出て戦っていく準備すらできないまま社会に放り出され、そして訳も分からず社会から逃げてしまうという結果が導かれるのです。

 

 

 

つまり、社会が成立する上で必要なルールやまたは理不尽さを、学校教育の時点である程度教えるべきだということなのでしょう。

 

 

 

そして、後者の意見。一人ずつ生徒に向き合えば、体罰教育は必要ないという意見について、それはごもっともな意見だと思います。

教師が生徒一人一人に向き合うのは、それはもちろん向き合う存在であって欲しいのですが、その向き合い方が問題になってきます。どの程度まで向き合うべきなのか、そして一番の問題は、向き合う時間と余裕がどれくらいあるのかということ。

先ほどの体罰賛成の先生は、それは理想論で、現実には一人一人に向き合うことができるだけの教師の数が足りていないことを指摘しています。だから、ある程度の規則に則った教育スタイルを重視するのです。

 

 

 

これはかなり難しい問題ですが、私自身の見解を述べると、

自分自身をちゃんと見ていてくれるという存在が、どこか一つでもあれば人間頑張ることができます。それが、先生でもいいし、家族や友人、恋人でもいいわけです。

一番の理想は家族だと思いますが、そうはいかない家庭もたくさんあるので、そういう時は先生の出番かなと思うのです。なので、そういう生徒の場合、先生はよりどころになりながらも、かつ社会を教えるという2重役割を背負うことになります。この2重役割は、できる人とできない人に大きく分かれそうなくらい、とても時間がかかる上に、才能やスキルが必要になってきそうです。果たしてそうした先生を育てる仕組みは整っているのでしょうか...

 

 

 

なので、生徒に一人間として向き合うのは当然のことですが、どの面から向き合うかという、教育のそもそもの役割みたいな話になってきてしまいます。

ですので、体罰賛成派の人は、社会適応能力を身につけるための教育に特化した考え方ですし、体罰反対派の人は、人間としてどう育って欲しいかというような、もっと広い視点で教育を捉えているのです(そりゃあどれだけ討論しても拉致があかないよね)。

 

 

 

ここで私の思うことをズバッと申し上げますと、以下のようになります。

・人が死んでいるんだから体罰は禁止にした方がいいという論はちょっと極論すぎる。

・つまり、体罰自体が問題なのではなく、体罰をする(手加減ができない)先生に問題がある。

体罰を禁止するならその代わりになる生徒に対する抑止力を先生に与えた方がいい。

 

 

 

体罰はいけないという風潮は本当に最近起こってきたもので、ここにまず注目ポイントがあります。ではこれまでの昭和の教育で行われてきた体罰が、現代の風潮に合わないのは、環境など時代背景も大きく関わっています。

炎天下の中、罰ゲームとしてグラウンドを何周も走らせるのだって、昭和でもあったでしょうが、昔に比べて日本の夏の気温は上昇傾向にあります。また、クーラーとの寒暖差に身体が慣れないとか、そうした環境の変化があるにも関わらず、昭和のやり方を貫き通す。これは明らかに間違っていることです。

 

 

 

だから、今の時代に合わせたなんらかの抑止力を開発するか、もしくは体罰以外の抑止力が見つからないのであれば、体罰する上での度合いや注意事項を教師側に徹底的に叩きこませる方法しかないのではないかなーと思うのです。

いうことを聞かない生徒がいた時、

まずは話をして説得させる(ここも先生の技術が問われるところですが)。

そしてそれでもダメなら、最後には職員室にある、痛ーいお尻ペンペンマシーンの刑が待っているとか。

まあそれはなんでもいいのですが、とにかく何か「やばい」と思わせるものをチラつかせておく必要はあるのかなと。

もちろんそうした物理的抑止力がないのが理想ですが、それで教育がうまくいっているとは実体験からしても思えません。教えてくれる先生がノーベル賞受賞者級に目に見えてわかりやすい価値を持っているとかだったらそれ自体が抑止力になるのかもしれないけれど。

 

 

 

 

体罰で生徒が死んでしまうたいていは、教師のやりすぎによるものです。

(やりすぎてしまう人は、1回アリストテレス先生の思想に触れてみたらいかがでしょうかね...)

だからそのやりすぎてしまう部分をまずどうにかしたらいのに、体罰自体がダメなんだ!ってかなり極論ですよね。教師がそうなってしまう理由をちゃんと探して、メンタルヘルスをするだとか、校長からしっかりその教師に注意するだとか、そうした個別的な解決だけでだいぶ改善するような気がしますし、それでもダメだったら、体罰を絶対禁止にしたらいいのでは?と思います。

 

 

 

 

(話飛びますが、NGT48のSNS使用禁止だって極端すぎるし、運営側がしっかり彼女たちを指導する気がないのかなって思ってしまいますよね...)

 

 

結構長くなってしまいましたが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

ゆとり教育は失敗だと言われていますから、また少し引き締まった教育スタイルに戻るということも可能性としては感じている今日であります。日本の教育、どうなるのかなぁ。

 

 

 

Hermeto Pascoal!

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

実は5/16にあったエルメート・パスコアールの大阪公演にひっそりと足を運んでいました。

エルメート・パスコアールは、現在82歳のブラジル音楽の大巨匠で、ブラジル音楽といっても、マイルスに楽曲を提供したこともあるジャズミュージシャンの一人でもあります。でも実際に会ってみると、年齢を感じさせない元気さでした。

 

 

 

来日公演のことを知るまではエルメートの音楽を全然聴いたことがなかったのですが、友人に勧められて聴いてみるとめちゃくちゃ良くて...

何がいいかというと、まずはブラジル音楽独特のリズム。

やはり普段からジャズ多めな私からすると、聴けば聴くほど不思議な感じがしてくるリズムなんです。ジャズはベースにかなり曲のリズムを委ねている印象がありますが、ブラジル音楽の場合は、パーカッションがその役割を担っている感じがあります。

なのでベースラインが割と自由にしたり、あるいは消えたりしても全然成り立っているんですよね。

言い方が変ですが、パーカッションが置いている強拍がベースやメロディーがとっている強拍とは違う次元にあるといいますか、

かなりディレイしたように聴こえる時があるので別の音楽を重ねていると思いきや、強烈な一体感があるんですよねぇ〜、一体どうなってんだろ笑

これを機にブラジルのリズムも研究しようかなと目論んでいるところであります。

 

 

 

 

そして、エルメート最大の魅力はメロディーラインです。

それは今回のライブのピアノソロでも痛烈に感じました。

ハーモニーの作り方はかなりジャズの要素が強くて、複雑な和音を巧みに使いこなしていたのですが、その一方で奏でられるメロディーはシンプルに美しかったです。

でもそのシンプルさが最大の魅力で、複雑化したいろんな音楽の要素を取り入れて取り入れて取り入れまくった結果、原点のシンプルなラインに戻ってきた時に感じる美しさたるやハンパないものを感じます。

そのハンパなさというのをあえて言語化してみると、純粋に心で音楽を感じるということなのかなと。

私が大ベテランの演奏に感動するときは、奏でる音にものすごく人生が詰まっていて、そして1音1音にめちゃくちゃ説得力があって、それがストレートに私たちの心に届くからだなと改めて思いました。

 

 

 

 

もちろんエルメートのサポートメンバーも素晴らしかったです。

特にピアノのアンドレマルケスとサックスのジョタ・ぺの情熱と超絶技巧には驚きました。

そしてエルメートの息子であるファビオ・パスコアールのパーカッションがこれまたすごい。とにかくトライアングルで刻み続けるリズムが圧巻で、私たちが幼稚園の頃とかに学芸会で演奏したあのチーンって鳴らす楽器とは思えなかったです。完全にトライアングルのイメージが変わりました。

 

 

 

ステージ上で凄まじい勢いの演奏を繰り広げたかと思うと、エルメートがステージの真ん中で体をひょこひょこ揺らしながら曲の指揮をとったり(その姿が超絶キュート)、みんなが打楽器を持ってリズムだけのアンサンブルを披露してくれたり、見ても聴いてもとても充実感のある楽しい公演でした。

観客の中には立ち上がって音楽に合わせて踊り出す人もいて、いつものジャズ界隈とはまた違った雰囲気が味わえて面白かったです!

 

 

 

 

 

留学生のお友達

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

はてなブログは自分のブログがどれだけアクセスされたかを見ることができるのですが、

なんと最近回数が増えています…!

ありがたい〜!

 

 

読んでもらっている人数が増えているのか、一人の方がたくさん読んでくださっているのかはわかりませんが、Twitterやめたら読んでくれる人もすごく減るだろうなーと思っていただけに予想外で嬉しいです!

 

 

 

さて、今日は私のお友達の話です。

留学生である彼女は、日本の文化を学びに私の通う大学に来ていて、ジャズ研に顔を出してくれたことがきっかけで仲良くなりました。

 

 

 

日本の文化を学ぶといっても彼女の本来の専門は音楽で、特にクラシックに精通しているのですが、ジャズも好きということで意気投合。

日本語がとても上手なので、すぐに仲良くなり、時間を見つけては一緒に遊びに行く仲になりました。

 

 

 

日本と出身国の文化の違いや、日本語の難しさの話を聞くだけでたくさんの発見があってとても楽しいです。

彼女は英語、ドイツ語、スペイン語ラテン語などに精通する語学マスターなので、私も英語やドイツ語のことについて色々教えてもらっています。

 

 

 

私は英語に対する苦手意識から、語学の勉強が億劫になっていたのですが、とにかくたくさん話して身につけていく彼女の語学スタイルに触れることで、もっと気軽に語学を楽しもう!と思えるようになりました。

 

 

 

 

音楽が専門なのになぜわざわざ日本に留学に?と思った方もいるかもしれませんが、そこが彼女の最大に素晴しい点です。

彼女は、豊かな心で音楽をするために、色んな国の文化や考え方を学んでいるというのです。

 

 

 

このことを初めて聞いたとき、趣味といえど音楽をやっている身として、本当に心打たれました。

彼女は音楽的な技術を見るだけでなく、その演奏家自体の人間性をとても重要視しています。

私も演奏を聴くときは、同時にその人がどういう人間かについて考えるようにしているので、まさかこんなに視点が一緒の人がいるとは…!という驚きもありました。

 

 

 

彼女も言っていたのですが、日本は演奏技術をとても重視しすぎるために、音楽に対するイメージや心が少し蔑ろにされている面があるようです。

確かに、日本ではクリスマスで家族集ってみんなで歌うなんてことはめったにありません。でも彼女の母国では、家族や友人とみんなで音楽を一緒に奏でて楽しむ習慣があるのだとか。

本当に素晴しいですよね。

 

 

 

明るくて、誠実で、一緒にいて楽しい友人との出会いも、音楽を好きでいたおかげなので、やはり音楽には感謝してもしきれんなぁ〜という気持ちです。

 

 

新元号ですね

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

とうとう令和が始まりましたね。

平成生まれの私からしたら元号が変わるのは初体験だったので、今後どういう風に日本の空気が変わっていくのかが楽しみです。

 

 

 

私たち若者世代は、暑苦しいおじさまなどに対して「うわ、昭和だな〜」と思いますが、令和が始まったことによって、私たちも「うわ、平成だな〜」と言われることがきっとこれから増えるのだと思います。

 

 

 

いつの時代に生まれたからといって、それだけで人を判断するのはどうかと思いますが、少なくとも生きた時代がその人の人格形成を左右するということはあるでしょう。

私たちと、昭和生まれの人たちとでは、当たり前にあったものだったり、常識的なことも多少の変化はあるでしょうし、

令和生まれの人は、生まれた時からスマホがある時代です。

そう考えたら一体どんな世代のカラーになるのだろう...

 

 

 

平成に生まれたくて生まれたわけではありませんが、生まれたからには平成がどんな時代として位置づけされるのかということにアンテナを立てておく必要がありそう。

ゆとりとかも同じことですが、「世代」っていう括りは、自分が思っている以上にかなり強い力を持っているようです。自分が気づかないうちに、周囲から〇〇世代と呼ばれ、レッテルを貼られてしまいます。しかもその根拠が生まれた年ですから、絶対に自分の力で変えることはできません。

 

 

 

周囲からされる世代づけは、何かしらの一体感だったり、むしろそこから抜け出したいという拒絶感だったり、私たち自身に様々な心理的影響を与えます。

私としては、世代づけは一般の人が自分を見るときの評価として基準になるものでもあるのでそこは踏まえつつも、あまり世代にとらわれすぎないようにしていきたいなと思います。まあ当たり前のことを書いているのですが、年上の方と話したりしていると、やはりそういう世代に関する言葉は多く出てくるのです。

 

 

 

自分が大して重要視していないことでも、世間的には何らかの基準になっているということはざらにあります。

さて、令和になり、平成はどういう世代と言われるのやら...

私の恋愛観

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

「恋愛観」ってかなり複雑で、一言二言では表せないくらい、その言葉の中にぎっしり色んなものが詰め込まれているように思います。

 

 

 

よく「相手に好きになってもらうには?」とか「彼氏がこの行動をとってたら要注意!浮気してるサインかも??」とかいう恋愛コラムを目にします。

読んでみて、なるほどと思うものもたまにはあるのですが、ほとんどがよくわからないというか、共感できないことが多くて。

 

 

 

こういったコラムに書かれていたり、一般論として語られる恋愛観を「一般的恋愛観」とすると、私の恋愛観はどうやらそれとはずれているということが最近ようやくわかりまして(遅い)。

今までずっと抱いてた恋愛に対するもやもやがかなりクリアになりました。今回はそのお話です。

 

 

 

 

高校生のとき、当時付き合っていた人と週に1回は学校から駅まで帰るという、あのいかにも青春!という約束をしていました。

ある日相手が、週に一緒に帰る回数を増やしたいとお願いしてきたのですが、

正直私としては、部活も忙しいし、週1で満足していました。

 

 

 

 

この時点で、

いや、一緒に帰るくらいしたれよ!相手かわいそうやん!!

って思われる方も多いと思います。

実際に同級生にも散々言われ、

「ほんまに好きなん?」と聞かれたときに、

自問しました。

 

 

なるべく一緒にいたいという気持ちが無いということは、私はこの人のことが好きではないのかも…

 

 

でもこの誤った認識が、自分自身を苦しめることになりました。

私は、「付き合っているならこれくらいはするだろう」という一般的恋愛観に疑問を感じながらも、それを絶対的な基準として自らの恋愛に当てはめてしまったのです。

 

 

 

つまり、今はあまり会いたくないと思っているけれども、付き合ってるんだったら会わなくてはいけないとか、

デートで、(そこまで興味もないのに)雰囲気のいいところに行くとか、

正直何ヶ月記念とかどうでもいいけれど、相手に合わせてメールのやり取りをしたりだとか…

 

 

 

 

本当は楽しむはずの恋愛が、それこそいつも言っている「義務化」になってしまったんです。

デートの後はすごく精神的に疲れてしまっていました。

結局その相手とはあまり長続きせず、別れてからも、しばらく恋愛に対してはあまり楽しいイメージを持てませんでした。

今考えたら、当時は自分らしく振る舞うことは全然できていなくて、無理やり自分を恋愛の型に当てはめに行っていたなと思います。

 

 

 

好きという気持ちは、絶対的な数値化が難しいのではないでしょうか。

週に1回デートする=50スキ(そんな単位ないけど…)

とすると、今はデートしたくない気分になっただけで、50スキが0になるかどうかというのは本当に人それぞれだと思います。

Aさんにとっての50スキに相当する好き度合いが、Bさんにとっての30スキかもしれないし、

高級感あふれるアクセサリーをプレゼントしたとして、表面的な好意は表せるかもしれないけれど、確実に100スキを表せるわけではないのです。

 

 

 

だから、自分の好きという気持ちを、一般的恋愛観で測ることは難しいことだと思います。

ここで注意していただきたいのが、

お互いがとても好きで、週に1回はデートしたい!という気持ちが生まれ、お互い合意のもとで約束している分には全然否定しません。むしろ素晴らしいことだと思います。

恋愛が何よりも一番!という考え方も、ある意味人間らしくていい生き方です。

 

 

 

けれど、私自身は自分のペースを見失ってまで恋愛したいとは思いません。

自分のことをちゃんとこなした上で、プラスα恋愛も楽しめたらいいかなというくらいの気持ちです。

 

 

 

 

私の言いたかったことは、

四六時中恋人といたい人の「好き」と、私の「好き」を比べて、前者の方が「好き」の質が高い、優れているなどとは決して言えないということです。

それぞれがそれぞれの「好き」でいいと思います。

 

 

 

人間は変わる生き物ですから、私の恋愛観が変革することもあるかもしれませんが、

自分で自分の考えに気づいてからは、周りと比べないようにしたので、恋愛に対してすごく気持ちが楽になりました。

だから、恋愛コラムも鵜呑みにせず、あくまで参考程度に。

 

 

 

という感じで、平成最後の投稿にしたいと思います!!