燦太郎の「表現日記」

思っていること、考えていること、本やCDのレビューなどについて毎日書きます。

信仰心

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

この間、ある男性に宗教の勧誘じみたものを渡されました。まあまだ私も学生ですし、年齢的にも宗教の勧誘のターゲットになりやすいことは自覚していたのですが...

そこには「あなたを幸せにできるのは私だけです」という趣旨のことが書いてありました。

私がいわゆる「宗教」に物申したいのはこの点なのです。

 

 

 

 

 

 

 

私の幸せは私が決めるんだから、あなたの幸せの基準をどうか押し付けないでほしい、

と思うんです。こういった勧誘のものを読んでいるといつも感じます。

私は宗教自体に嫌悪感があるのではなく、宗教を信仰する人の「狭い見方」が苦手なのです。もちろん私の知っている人の中でも、宗教を信仰しながら、幅広いものの見方ができる人がいますし、哲学者だって、歴史的に見て無神論者の方が少ないくらいです。

信仰したい人がすればいい、というのが私のずっと思うところで、もしかすると、自分も何か肌に合うものがあれば信仰心を一定の宗教に向ける時がくるかもしれません(ちなみに今はどこの宗派に熱を注いでいるわけでもありません。私自身は一般でいう「無宗教」です)。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、宗教を信仰している人に、

幸せは人それぞれ相対的なもだから、そういうスタンスでよろしく!

とは簡単に言えないわけですよ。

なぜなら彼らには「布教」という仕事があるからです。自分たちの信仰をより決定的で絶対的なものにすることで、その宗派の魅力が増したりするわけですし、その教えを広めていく義務があるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

信仰心が強い=他のものを排除

という動きがある限り宗教の持つ怖さは消えないですし、戦争も無くならないです。

でも同時に、そういった強い信仰心が信者の人生を支えていたりするわけで。

これはなんとも難しい問題です。

信仰心をもちながら、相対的な見方を身につけていくことが必要だと思うのですが、これは机上の空論になってしまうのかなぁ…

 

 

 

 

 

 

 

バンドの伴奏者に求めること

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

今回いただいたご質問は、

自分のバンドの伴奏者に何を求めるかということです。

 

 

 

 

 

私なぞが偉そうに伴奏者はこうあるべきだ!みたいなことは言えないのですが、こういう伴奏者はいいな〜と思うことについて簡単に書きます。

 

 

 

 

 

まず、私の中でコード楽器(ピアノ、ギター)は空間、ベースは横(流れ)、ドラムは縦(区切り)という大まかなイメージがあります。

それぞれが編成や場合によって縦になったり横になったりすると思いますが、基本的にはこういうバランスだと私は解釈しています。

 

 

 

 

 

なので、ベースは曲の流れをどんどん作っていくような、推進力のある演奏が好きですね。

ラードとかになると、特に曲の流れを押す加減が難しくなるので、そういう意味ではベーシストはタイム感もめちゃくちゃ必要になってくるんだろうな…と思います(タイム感はどの楽器も必要なのですが…)。

ベースがしっかりしていると曲の土台ができている状態なので、フロントもとっても吹きやすいのです。

 

 

 

 

 

 

そういった流れを自在に操れるのはドラムの特権だと思います。もちろんスィングではレガート叩いたりと、流れは作っているのですが、フィルインなどでバチッと曲に締まりを出せるのはやはりドラムならではと感じます。

なのでドラムは(いい意味で)流されない、でもしっかり曲には乗れていて、たまに曲を止めたりして遊ぶ余裕すらあるというなんともすごいことをやってのけている方が上手だなと思います。これはどうやら単にインテンポで刻めてたらいいというわけではなさそうなので、ドラムって奥が深いですよね…

 

 

 

 

 

 

最後にコード楽器ですが、これはまさに空間です。コードの感じを変えていき、曲を全く別世界に持っていけるのもコード楽器のなせる技。

フロントのソロに合わせてそれができる人はめちゃくちゃすごいです。演者もどこかへトリップした感覚になります。

なので、独自の世界観(コード感)を持ったピアニストは好きですね。この人しか作り出せないな、という伴奏ができる人。

 

 

 

 

 

こんなふうに書いていると、どの楽器の人もやっぱりすごいわ…とますます頭が上がらなくなりますね…

こうした基本的なことを踏まえた上で、

ドラムがめっちゃ空間作っているとか、ピアノがバッチバチに決めているとかいうのもまた面白いと感じます。

 

 

 

 

 

とにかく我々フロントも含め、セッションなどする中で自分の音以外にも意識をむけて、皆が曲全体を把握することが最重要だと思います。

それをちゃんとわかっている人と音楽できたらすごく楽しいです。

私も吹くのに必死になってしまってなかなか実践できていないときもあるのですが、心がけていきたいです。

 

男の価値

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

 

 

「男の価値」とは何で決まると思いますか?という質問をいただいてから、自分の中で色々と考えたのでまとめておこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

まず、「価値」という言葉の意味ですが、

 

1:物事の役に立つ性質・程度。値打ち。

2:(哲学で)「良い」と言われる性質。人間の好悪の対象になる性質、または個人の好悪とは関係なしに誰もが「良い」として承認すべき普遍的な性質。 (広辞苑より)

 

とあります。

 

 

 

 

 

 

1の意味で「男の価値」を考えて見ますと、「どんな男が役に立つか」ということです。これは世間一般でいう、お金をたくさん持っているとかそういうことなのでしょう。でも個人的には人付き合いをする上で「この人私の役に立ちそうだ」と思って接したくはないですし、その人付き合いの仕方には疑問があります。

まあ実際にそうやって人を選んでいる人はたくさんいて、その類の友人などが過去にいましたが、その人にとって私の価値がなくなったら縁切られるんだろうなと思ってあまり快くはなかったですね。

 

 

 

 

 

 

 

次に2の意味での「男の価値」について(質問者さんはこちらの意味でご質問されたのかな?と勝手に解釈していますが...)。

「男」としていいと思われる性質ということですよね。

ぶっちゃけてしまうと、それって「男」であるだけで十分なんじゃないでしょうか。

好みのタイプは人それぞれ違うので、普遍的な意味で「男の価値」を見つけるのはなかなか難しいですし、一般的な意見はどうかわかりませんが、私は身長が高い人の方が男の価値があるとは別に思いません。

容姿がいいとかそういうことは、男女にかかわらず魅力の一つにあげられると思います。逆に「清潔感ない男はダメ」などの条件もよく聞きますが、それも性別関係なく人間としての問題でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

前のブログにも書きましたが、「女」とか「男」とかそういった性別のフィルターよりも、人間としてどうなのかが私の中では重要なので、人に対して「いい男だと言われるんだろうな」と思うことはあっても、自分から「いい男だな」と思うことはあまりないです。まずは「いい人だな」と感じるところから始まるので、どんな男が「いい男」だと思うかという質問はうまく答えられません...申し訳ないです。

質問の回答でも申し上げた通り、「男の価値」にこだわっている男の人は、「女の価値」も強く求めているような気がしてどうも好きにはなれません。

仮に背が高くて、顔が良くて声もカッコよくて、社会的地位があっても、人間としては最悪だったらその人に対して「いい」という気持ちすら湧いてこないというのが私の意見です。

 

 

 

 

 

私はかなりひねくれた見方をしているかもしれないので、質問者さんの求めている回答は他の方に聞いてみた方が見つかるかもしれません...

私なりに考察させてもらいました。またご意見などあればぜひお願いいいたします!

 

 

 

 

自分の優先順位

 

 

昨日はバイト先の先輩から色々なお話を聞かせてもらいました。

その中でとても興味深いなと思った話。

 

 

 

 

 

学生の就職を支援する企業が主催となって、これから社会に出ていくためにどういった心がけを持っていったらいいかという内容のセミナーなどがあるらしいです。

そこでは、

学生の今までは自分を中心に考えて生きてきただろうけど、これからはまず仕事、次に家族、その次に自分という優先順位が求められている…

というようなことを唱えていると先輩が教えてくれました。

 

 

 

 

 

 

その話を聞いて、色々な疑問が浮上(先輩もその話にあまり納得してませんでした)。

ここには、

仕事=自分はやりたいと思ってないこと

というようなニュアンスが含まれていませんかね…

仕事に専念することが結果自分のやりたいことに繋がっているという考えはあまりないのかなと感じました。

 

 

 

 

 

 

 

もちろん働くことは責任を負うことですし、大変なことや嫌なこともあると思います。

自分を押し殺すことも時には必要ですが、人間、ずーっと自分の優先順位を低く保つことってできるんでしょうか。

無理だと私は思います。自分も大切にできない人が他人を大切にはできないでしょうから…

 

 

  

 

 

 

自分の優先順位を下げることでなく、自分を大切にした上で、どう仕事をしていくか、家庭を築いていくかという精神的なアプローチの仕方を教えてほしいです。

仕事や子育てが自分のやりたいことになれば、それは結果自分の為になっているし。

自分を押し殺すことを教えるから、過労死とかが無くならないのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

私は実際に働いたことがないので机上の空論かもしれませんが、間違ってはいないと思います。社会人の方にお話を聞く機会がほしいです。

 

 

1ヶ月書店で働いてみて

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

書店で働き始めて1ヶ月ほど経ちました。

週4で勤務なので、大変かな?とはじめは不安だったのですが、想像以上に楽しくやっています。

 

 

 

 

 

 

前の飲食店とは違って、学生バイトはかなり少なくてほとんどが社員さんです。

皆さんとてもいい人で、しっかり仕事上での付き合いをしてくれるので、私にとっては最良の距離感です(今のところ)。仕事という線引きがあった上で仲が良いという関係性は好きです(私自身がオンオフはっきりしたいので、仕事場はそれくらいあっさりしていたほうが心地良い)。

もちろん、人間として仲良くなれる人がいたらたら一番嬉しいですが…なかなか自分から行けないので…

 

 

 

 

 

 

そして何より皆さん本が好きです。

休憩時間も読書している方が多いですし、わざわざ遠くからこの書店のために通っている方もいて、本への愛を感じます。

そういう光景を目にするたび、自分ももっと本を読みたいと思えますし、

ここで働かせてもらえてよかったな〜と思います。

 

 

 

 

 

 

本に囲まれていると自然と背筋が伸びる感じがします。実際に働き始めて本を読む時間も増えましたし、自分自身の考え方や行動が変化してきたのもひしひしと感じています。

環境が人を変えるとはこういうことか〜と身を持って実感。

 

 

 

 

 

 

まだ1ヶ月のぺーぺーですが、楽しみながら頑張っていきたいです!

何もない自分

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

時々無性に虚しくなるときがあります。

これまでの自分の人生などを振り返って、とりあえず目の前のことは頑張ってきたけど、そこから自分は何か得られているのか。 

やりたいことをやっているけれどどれも中途半端で、何一つ形にできていないんじゃないか。

結局自分のやってきたことって空虚なんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

そう思っていても前に進めないし、こう考えても仕方ないのけれど。

やってきたことが無駄とは思いませんが、なぜだかふと考えてしまうときがあるんです。

目に見えて結果がでることをあまりしてきていないので単に自分が不安なんでしょうけど…

やっているつもりで結局何もできていないというのがかなりの恐怖で、自分はそうなりやすい人間だとか。いろいろ。

 

 

 

 

 

最近自分には何があるのか、自分にできることは何か、何が向いているのか…そんなことばかり考えてしまいます。

こうやって自分に不安になったとき、皆さんはどう自分とむきあっているのでしょうか。

何かおすすめの対処の仕方あったらぜひ教えていただきたいです。

 

哲学的なことを考えるようになったきっかけ

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

 

今回はとても興味深いご質問をいただきました。

哲学的なことを考えるようになったきっかけについてです。

質問者の方は、小さい頃に両親に自分の気持ちを理解してもらいたかったけれどもそうはいかず、そのことが哲学の本を読み始めるきっかけになったそうです。

 

 

 

 

 

 

私自身、実際に哲学的な思想に出会ったのは高校の倫理学の授業で、そこから興味を持ち始めました。

しかしなぜ哲学に惹かれたのかというと、自分の性格に合うと言いますか、自分を受け入れてくれるような気がしたんです。

 

 

 

 

 

 

 

両親は私の良き理解者であったのですが、逆に同世代の友人関係に悩むことが多かったのを覚えています。学校などに通い始めると両親よりも同級生といる時間の方が圧倒的に長いですよね。同級生との表面的なトラブルなどはあまりなかったものの、子供の中で共有される何か目には見えない常識みたいなものにとても窮屈さを感じ、かなりストレスを抱えていた時期もありました。

例えば、保育園の頃から友達と喧嘩したときは、まず自分はどこが悪かったかを反省するように両親から言われてきました。そういう態度が先生からは褒められたりしましたが、逆に同世代の間では「そんなことしてたら自分が損するでしょ、何やってんだよ」というような空気感があって、それに耐えるのは結構大変でした。

自分はただ状況を冷静に見て、自分の欠陥を事実として述べただけなのに、それが損するということはこの世の中どうなってんだ?という。

もしかするとこの時点からすでに色々考えるくせがついていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分で言うのも変な感じがしますが、小学生、中学生、高校生の頃はかなり真面目な性格で、学校生活を楽しんでいるんだけれども、自分が思っていることと周りが良いとする価値観の違いに戸惑い、色々考え込んでいることが多かったです(もちろん仲が良い子もいるのですが少数でした)。

両親は私の息が詰まった様子に気づいてくれていましたが、高校生にもなって両親にべったりして周囲とは仲良くしないということはできない。

そんな時に手を差し伸べてくれたのが先人たちの思想だったのです。

初めて彼らの思想に触れた時、自然と涙がこぼれました(しかも授業中ですよ、いま考えたら相当自分悩んでたんですね...)。世界は自分の捉え方次第でこんなにも違って見えるということに感動して、これまで苦しんできた価値観から解放された気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

「そんなこと考えても無駄じゃん!」と言われてもなお考えることをやめられなかった私にとっては、哲学は「もっと考えよ」と言ってくれる場で。

それまではぐちゃぐちゃと考え込みすぎてしまう自分が嫌いだったのですが、哲学の世界を知ってから考えることがさらに好きになりましたし、周囲の人との関わり方もわかってきました。

ですから、私の場合は両親よりは、周囲の同級生に対して「理解しあえない」と思うことが多かったのが哲学的なことを考えるようになったきっかけになったと思います。

 

 

 

 

 

こうして考えてみると、なぜ哲学に惹かれるかは人それぞれ違った過程を歩んでいるんですよね〜...興味深いです。もっといろんな人と深い話をしたい。

質問者さん、ご質問ありがとうございました。またご意見などあればよろしくお願い致します!