燦太郎の日記

思ったこと、感じたこと、考えていることを自由に書いています

哲学史をまとめてみる#2-2 ソクラテス、プラトン

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

今日はプラトンについて書いていきます!

 

 

 

この企画のスタートはこちらから↓

注意事項読んでください〜

ushfskda6485-sshdajoji.hatenablog.com

 

 

#2−2プラトン

 

さて、前回はソクラテスと小ソクラテス派について書きました。

ソクラテスの弟子の中でも一番頑張ったのがプラトンです。ソクラテスは実は自分では一冊も本を書いておらず、プラトンが自分の本にソクラテスを登場させたので、ソクラテスの思想を私たちは知ることができているのです(どこまでが本当にソクラテスの思想かは怪しいところがありますが...)。

 

 

プラトン(B.C.427-347)

彼はソクラテスの思想を受け継ぎながらもかなり独自な思想を展開し、現在でも哲学界に影響を与え続けています。今回はその中の有名な思想を紹介していきます。

 

 

イデア(形相)

イデアとは、永遠に変わらない知の対象、すなわち概念的認識の対象です。

例えば、ある花を見て「美しい」と思うことは、その花以外に「美しさ」を私たちは認識しているのです。この非物体的な「美しさ」こそが実在であり、この花はその「美しさ」というイデアの写しに過ぎない(つまり花に実在性はない)というのがイデア論の簡単な説明になります。これがプラトンの最も根本的で、最も有名な思想です。

 

 

洞窟の比喩

このイデア論を世界規模で考えてみると、私たち人間が今見ているこの世界は、実在しているかと思いきや、単なるイデアの写し、コピーを見ていることになります。

まるでそれは、暗い洞窟に拘束され、壁面に映るイデアの影を見ている状態です。そして私たち人間は、自分の背後で輝いているイデアの本当の存在を直接見ることなく、目の前の影を真理と思い込んでいるとプラトンは言います。

 

 

想起説

では、どうしてある花を見て「美しい」と思うのでしょうか。イデアそれ自体についての前持った知識がなければ、目の前のものがイデアの写しであることをわからないはずです。

プラトンは、感覚から得られた刺激を通してイデアを認識することを、想起(アナムネーシスと呼びました。つまり、様々なイデアの概念はもともと人間の魂にインプットされていて、知覚を通してそのイデアを思い出す、というプロセスで私たちはイデアを知ることになるというのです。

 

 

 

魂の不滅

もともと知ってるってどういうことやねん!と思いますが、プラトンは、魂が前世でイデアの情報を得てくるという魂の不滅によってこれを説明しようとします。

これはピタゴラス派の輪廻転生思想の影響を受けていて、身体は魂にとってはただの仮住まいに過ぎません。ここからもわかるように、プラトンは目に見える世界や物質よりも、魂やイデアといった観念を非常に重視していることがわかります。このように、観念で世界を記述しようとしたり、実在性を語ったりする立場のことを「観念論」と言います。

 

 

英知界と可視的世界

では、イデアはどこに実在して、魂がそのイデアをどのようにして得るのでしょうか。

プラトンは、今私たちが生活している世界を可視的世界(ホラタ)、イデアの世界を英知界(ノエータ)と掲げ、二世界論を展開しました。

ホラタには、私たちを惑わす臆見(ドクサ)や想像(エイカシア)が現象として現れている世界です。この世界が非存在の世界である所以は、何ひとつとして永遠なものはなく、生成消滅を繰り返すからです。

一方ノエータは、ホラタの目的となる世界です。数学などの原理や、イデア(そのトップは「善」なのですが)が存在し、その世界を統括するのが「理性(ヌース)」であり、「神」であるといいます。その本質に近づくために私たちはそれについて思いを馳せること(このイデアを強く求める気持ちは「エロス」と呼ばれます。「エロ」の語源です)はできるということです。

だから、魂はノエータとホラタの中間的存在ということができます。

 

 

・魂の3区分

では私たちはこの魂といかに生きていくべきなのでしょうか。プラトンソクラテスの弟子ですから、もちろん「善く生きる」ということについて考えています。

プラトンは、魂を3つの部分に分け、それに対応する徳(アレテー)を想定しました。

つまり、理性的部分には「知恵」という徳を、気概的部分には「勇気」、欲望的部分には「節制」をそれぞれ当てはめ、それをバランスよく運用していくのが良い生き方だと言います。そして、その秩序をもたらす徳が「正義」です。

この「知恵」「勇気」「節制」「正義」はプラトンの四基徳と呼ばれています。

 

 

・国家

最後にプラトンが理想とした国家について見ておきましょう。彼が理想としたのは厳密な階級制で、これは魂の3区分にも対応しています。ヒエラルキーの一番トップに君臨するのは統治階級で「知恵」を担当します。真ん中の階級が軍事階級で「勇気」を持って国を守る役割を果たします。そして一番人数が多く、階級が低いのが商人、工作人、農民の階級で、せっせと働くことで国家の物資を補給したりします。そして、これらのバランスを保つものが「正義」であり「公正」です。

彼の理想国家が「哲人国家」と言われるのは、こうしたバランスを理解した頭のいい人(哲学を学んだ者)が国を統治すべきであると考えていたからでした。

この理想国家では、個人はこの徳に従って生きる、つまり国家のために生きることが前提とされていたため、徹底して国に管理された教育制度を取るべきだとプラトンは主張しています(まるでどこかの国の現在の教育制度ですね!)。

 

 

 

プラトンの思想は、ある意味でかなり強固なイメージを私は持っています。

実在するのはイデアだけだし、魂の区分のバランスを考えて生きなければならないし。

でもそれは当時の人々の様子を見て生まれた考えだったのです。

ソクラテスが国の法によって殺されたこと受け(ソクラテスは訴えられた挙句、法に従って毒人参を飲んで自殺しました)、哲人が国を統治すべきだと考えるようになりましたし、教育に力を入れるべきだと考えたのも、当時の国民の道徳の低落がきっかけでした。

 

 

 

プラトンの基本的思想はここまで。彼はかなり多くの本を書いているので、多分まだまだカバーできていないところがあると思いますが、お許しください...

次回はプラトンの弟子で、万学の祖と呼ばれるアリストテレスについて書いていきます!

哲学史をまとめてみる#2 ソクラテス、プラトン

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

今日は哲学者の中でも特に有名な、ソクラテスを中心に見ていきたいと思います。

 

 

 

 

この企画の第一回はこちら↓

一度注意事項に目を通していただければと思います

ushfskda6485-sshdajoji.hatenablog.com

 

 

 

#2 ソクラテス、 プラトン 

 

前回、相対主義ソフィストらの話をしました。

ソフィストらによって、学問がいわば道具のように都合よく利用されてしまう危険性を感じて立ち上がったのが、ソクラテスです。

 

 

 

ソクラテス(B.C.470-399頃)/「無知の知

彼はあまりにも有名な哲学者なので、もうそのエピソードについては知っている方も多いと思いますが、哲学史において重要なキーワードと一緒に彼の思想を紹介したいと思います。

彼もソフィストと同様に、自然哲学についてではなく、人間自身の問題について関心がありましたが、ソフィストと違い、本当に正しい知識を身につけることを重視しました。ソクラテスは、正しい知識を身につけることが、徳(アレテー)を備えた良い人間になる第一歩であると考えたのです。

 

*徳(アレテー)とは、卓越性、優秀性という意味。例えば、馬が他の生き物よりも優れている点は「速く走ること」であり、それが馬の徳だと考えられます。ナイフの徳は「よく切れること」です。

ソクラテスは、人間の徳は、「魂が優れてあること」としました。「魂が優れてある」とはどういうことかというと、「正しい諸徳について知ること」であるといいます。

 

 

無知の知

これはめっちゃ有名なフレーズですね。私は何も知らないということを知っている、ということ。つまり、みんな物事の真理を知った気になっているけれども、多くの場合は思い込みにすぎないので、まずは自分自身がどこまで真理に近づくことができているかをちゃんと知ることが大切であるとしました。

 

「産婆術」

ソクラテスはこの無知の知を自分だけでなく、みんなが無知の知に気づくことで、真理に到達できると考えていました。その実践方法として、彼は対話を用いました。彼は対話相手にいくつかの問いを立て、相手の知識の曖昧さを指摘し、無知を自覚させていきました。この問答法は、真の知識を生み出す手助けをしている様子から、産婆術と名付けられています。

 

 

「知徳合一」

前述したように、ソクラテスは知ることは人間の徳であるとしました。正しい知識を得れば、人間はよりよく生きることができるという風に考えたのです。このように、知と徳を同一視する考えを表す言葉を「知徳合一」といいます。

加えて、なぜそのようなことが言えるかというと、ソクラテスには「正しい知を持った人間は、正しく行為できる」ということが前提に置かれているのです。

つまり、正しいことを知っていながら悪行をなすことは彼にとってはあり得ません。

もしそのような状況だとすると、「本当に正しいことを知っていなかった」ということになるのです。これは後にアリストテレスによって批判されますが、ソクラテスと弟子のプラトンは知識と行為についてこうした前提を持っています。

 

 

 

「魂への配慮」

幸せとは、優れた魂であることであり、決して富や名声だけに固執しても幸せは訪れないとソクラテスは考えました。優れた人間になるためには、「魂への配慮」(イマイチ具体性がないのですが、私はこの言葉について、魂を意識して生きるくらいの意味かな?と思いました)が必要であるといいます。

→ここがソフィストとの大きな違いです!

 

 

 

 

 

さて、こうしてソクラテスによって徳の重要性が説かれたわけですが、このソクラテスの考え方のエッセンスを取り入れて、新たな思想を打ち立てようとした人々がプラトン以外にもいます。その人々は小ソクラテス学派と呼ばれます。

プラトンの思想に入る前に、少し見ておきたいと思います。

 

 

 

ソクラテス学派

・アンティステネス(B.C.445-365頃)/「徳以外のものは無用(アディアボラ)」

ソクラテスの徳を行為において追求し、徳さえあれば何もいらないとして、まるで犬のような極端な生活を行ったことから「犬儒派キュニコス派)」と呼ばれます。

 

 

アリスティッポス(B.C.435-355)/「快こそ人生の目的」

ソクラテスの「よく生きること」を「快く生きる」と解釈し、極端な快楽主義を唱え、キュレネ派と呼ばれました。というのも、彼にとって真に知りうるものは、個々人の快苦のみであると考えたからです(こういうのはなんと言えばいいんでしょうかね...主知主義主情主義でしょうか?)。後に出てくるエピクロスの快楽主義とは違い、かなり肉体的な快楽を重視していたので、ギリシャ思想史上最も極端な快楽主義と言われています。

 

 

・エウクレイデス(B.C.450-380頃)/「真理は概念にある」

真理は個物にあるのではなく、それらの概念にあると考えました。後に見るプラトンイデア論よりも究極化させ、善という一者こそが唯一の存在であるとしました。

 

 

 

 

これらのかなり極端な思想を持つ継承者よりも、有名かつ哲学界に大きな影響をもたらし続けている哲学者、プラトンについては次回#2−2でお話しします(予想以上に分量多くて間に合わない気がしてきましたが、できるところまでやる...!)。

 

哲学史をまとめてみる#1−2 古代ギリシャの自然哲学

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

自主企画#1−2、ということで、前回の続きです。

 

 

第一回目の記事はこちら↓

注意事項などもございますので、もし読んでない方がいたらまずこちらを読んでください〜

ushfskda6485-sshdajoji.hatenablog.com

 

 

では、早速続きへ...

 

 

 

#1-2古代ギリシャの自然哲学〜ソフィスト

 

前回はエレア派とヘラクレイトスの「存在」についての考え方が対立し、それを調停するような思想を打ち出す哲学者が出てくるよ!というところまで話を進めました。

今日はその哲学者たちの紹介を前半でして、後半では第一回で置き去りにしていた「ソフィスト」についての話を少しだけしたいと思います。

 

 

まずは一元論の限界を突破するべく、「多元論」を主張した哲学者たちについてです。

*ここでいう「多元論」は、万物の根源になるものはただ一つではなく複数あると考える立場のことです。

 

 

エンペドクレス(B.C.493-443)/「万物の根源は地、水、火、風である」

エンペドクレスはパルメニデスが主張した、存在は不変であるという主張を認めながらも、一方でヘラクレイトスの言う世界の物質的な変化についてもまた認めていたため、

物質の生成と消滅を、万物の根源が混合したり、分離したりすることで説明しようとしました。その万物の根源とは、「地、水、火、風」の4つです。

(この区分はよくゲームとか、星座占いで見られます)

これら4つの存在それ自体は、パルメニデスの主張したような不変不動の存在者です。くっついたり離れたりするだけなので、それ自体は消滅しません。

しかし、分離や混合をするためにはそれらが動かなくてはいけません。

そこで、それらを動かす原動力として、エンペドクレスは「愛」と「憎」を考え、ここに哲学史上で初めて動くもの動かされるものの明確な区別がされることになりました(哲学用語で、動かす原動力を「動力因」と言ったりもします。①のミレトス派が勝手に前提としていたことに新たな概念を見出したことに彼の功績があります)。

 

 

 

 

アナクサゴラス(B.C.500-428頃)/「雪もまた黒い」

エンペドクレスの4つの分類が気に入らず、アナクサゴラスは「スペルマタ(種子)」というものを世界の根源であると考えました。これは無数に小さく、無数に存在するもので、一見、今で言う原子のようなものに思われますが、その本質は異なっています。

スペルマタには、いろんな性質がぎゅっと詰め込まれており、「ヌース(理性)」という世界の秩序的原理に従って、スペルマタが分離や混合がされて、物質として現れてくるのです。

これはかなりイメージしづらいのですが、彼の常套句は「すべてのものの中にはすべてのものがあり、すべてのものがすべてのものの部分を含んでいる」というもの。

牛乳を飲んで骨が強くなるのはどうしてかという時に、現在ならカルシウムが含まれているからと考えますが、アナクサゴラスの場合だと、牛乳も骨の性質を実は持っているといったような主張になるのかもしれません(疑問は残りますが、自分の専門ではないのでこれが私の限界です...)。

 

 

 

 

 

原子論

上述した2人の影響を受けて展開されたのが原子論です。「原子」はそれ以上分割し得ない最小の単位で、その原子と、原子に運動の場を与える「空虚(ケノン)」とが、この世界を成立させていると考える立場です。

 

レウキッポス(B.C.500-440頃)

レウキッポスは原子論の提唱者で、物質の運動について考えるとき、空虚が必要であると考えたことから、非存在(=空虚)もまた存在すると考えました。ここが②のエレア派とは違う点です。

そして、アトマ(原子のギリシャ語、分かつことができないものという意味)は、空虚が入り込まない、それ以上分割できないものであって、一つ一つに質的な違いはないという点でも、これまでの論とは異なります。

ただし、動力因ついては、アトマは自分で動くものであると考えられていたようです。

 

 

デモクリトス(B.C.460-370頃)

デモクリトスは原子論の大成者と言われていますが、少し時代が新しい人で、まだ紹介していないソフィストらの影響受けながら、原子論を唱えました。

基本的にはレウキッポスの考えを受け継いでいます。彼が主張したのは、世界の生成変化は、原子の機械的な運動の結果に過ぎないとし、これらの運動になんら目的があるわけではないということでした。

 

 

ピタゴラス学派

前半の最後に、ピタゴラス学派を挙げておきます。この学派の最大の特徴は、「数」を世界の本質とした点です。ピタゴラスが立ち上げた宗教的な教団に属する人々が独自に研究した音楽や天文学、数学などが様々な法則の発見へとつながっていきました。世界を数による秩序で表し、特にその天文学は、地動説の先駆けともなるような思想として高く評価されています。

 

ピタゴラス(B.C.570-500頃)

彼自身は宗教家で、魂の輪廻転生を唱えました。また、厳格な禁欲生活を送ったとも言われています。有名なピタゴラスの定理は、学派のみんなで力を合わせて発見したようです。

 

 

 

前半の自然哲学についてはここまでです。

このように自然、世界に対して様々な見解が飛び交いましたが、紀元前5世紀の中頃から徐々に学問の関心が変化していきます。

その変化の大きな原因の一つは、ペルシャ戦争の勝利で国全体が豊かになり、文化的な学問が花開いたことです。政治の場で力を持ちたいと意欲する者も多く現れるようになり、そうした人々の教師として台頭した人たちがソフィストです。

 

 

 

ソフィスト

ギリシャ語で「学者、物知り」といったような意味ですが、これまで述べてきた哲学者と違い、実用的な知に対して関心があり、文法学や論理学の発展に貢献しました。

一方で、自らにとって優位を得るための学問は、相手を論破するような弁論術の発達をもたらし、彼らはのちに現れる哲学者たちに「詭弁家」と呼ばれるようになりました。

その思想の特徴は、(認識論的)主観主義や相対主義懐疑主義です。

相対主義を唱えた人として有名なのは、プロタゴラス(B.C.480-410頃)です。「人間は万物の尺度である」とし、神といった絶対的な存在に対しても不可知論(その存在について知ることはできない)をとりました。

他にも、非存在について説いたゴルギアス(B.C.484-375頃)や、法の権威について懐疑的な態度を示したヒッピアスなどがいますが、人数が多いのでここでは割愛します。

 

 

 

 

「本当の真理は客観的には知り得ないし、それは私たちの考え方次第だよ〜」といった主張は、結果的にソフィストのやりたい放題を許す思想になってしまいます。

そうした学問の危機を察知し、もう一度純粋な真理を求めようとして立ち上がったのが、かの有名なソクラテスです。

 

 

 

 

今回はここまで。

次回はソクラテスと、その弟子プラトンについて見ていきます!

 

自主企画!哲学史をまとめてみる#1 古代ギリシャの自然哲学

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

今回は久しぶりに自分で企画して複数回にわたって記事を書いていきたいと思います。

題して

「約10日間で古代ギリシャから近代ドイツ哲学までの大まかな哲学史を自分なりにまとめてみる」

です!パチパチ!!

 

 

 

 

実は今、哲学史の勉強を強化中。

けれど、一人で勉強していると、もう哲学史って途方もなく長いし、

インプットだけでは自分がどれくらい理解しているかもイマイチ掴めず、

かといって友達に急に哲学史の話をしだす勇気もないので、なんならこのブログで思い切りアウトプットしたろうやないか!という企画です。

自分だけでまとめるのと、読者の方が実際にいるというのではモチベーションも変わってきますので...(今回の企画は完全に自分用です、すみません)

 

 

 

とりあえず区切りよく8月の終わりまでをめどに、ひとまず古代から近代までをざっとまとめていきたいと思います。

 

 

 

 

ここで注意事項

1.私は哲学史の専門家ではないので、自分なりに学んだことをまとめてはいきますが、確かな知識をお伝えできている確証はありません。(転載はご遠慮ください)

2.哲学史にとって需要な語句など、かなり基本的なことについてまとめていきますので、より専門的な知識については触れません。

3.あくまでも自分の理解を深めるために書いているので、何か間違った点に気づいたり、わかりにくい点があったらご指摘いただけると嬉しいです。

4.私が学習の参考にした文献は以下の通りです。

・『西洋哲学史 —理性運命の可能性—』岡崎文明 他 著 昭和堂

・『西洋哲学史要』 波多野精一著 牧野紀之再話 未知谷

・『哲学用語図鑑』 田中正人著 プレジデント社

・『岩波 哲学・思想辞典』 岩波書店

・大学の授業でもらったレジュメ

 

 

 

注意事項を読んでいただいた上で、哲学史に興味ある方がいれば、この先も読んでいただけたら嬉しいです。長くて読みづらいかも知れませんが、ご了承ください...

では早速↓

 

 

#1 古代ギリシャの自然哲学

 

そもそも哲学史の始まりって一体どこからなのか?という疑問を持っている方もいるかもしれません。

人類が誕生して、言葉が生まれたその時から人間は哲学をしていたという風にも考えられますが、哲学史として学ぶのは古代のギリシャからが基本です。

なぜ古代ギリシャなのかというと、哲学の思想が文字として資料に残されているのがまず一つ。そして、万学の祖と言われる古代ギリシャアリストテレス(B.C.384-322)が体系づけた枠組みを私たちは今も受け継いでいるので、現在の哲学や学問体系の歴史を知るためには、古代ギリシャを辿る必要があるということです。

 

 

 

ギリシャ哲学はかなりの歴史を持っていて、約500年間の間にも様々な思想が飛び交っています。その流れをわかりやすく4つに区切ってみると以下のようになります。

1.自然哲学〜ソフィスト

2.ソクラテスプラトン

3.アリストテレス

4.ストア派〜新プラトン主義

 

と、これはかなり大雑把な分け方なのですが、古代ギリシャについてはこの4つの分け方でご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

ということで、今回は1の自然哲学〜ソフィストについて。

次回紹介するソクラテスはかなり有名のなので、名前を聞いたことがある方も多いかも知れませんし、ソクラテス以前に哲学者なんていたの?という方もいるかも。

哲学はソクラテスが発明したものではありませんので、もちろん彼に至るまでの歴史があるわけです。

 

 

 

ソクラテスに至るまでの哲学をまとめて「自然哲学」ということが多いのですが、なぜかと言いますと、彼らは自然の根源(ギリシャ語でアルケーと言います)とは何か、つまり、この世界は一体何からできているんだろうか、という疑問に立ち向かった人々なのです(ソフィストについては後ほど紹介します)。

イメージ的には今で言う科学者に近い立場。今でこそ哲学と科学は文理で分かれていますが、元々は自然に対する探求も哲学の一部でした。哲学はすべての学問の根幹と言われる所以です。

 

 

 

自然の根源なんて、テーマとしてはめちゃくちゃ大きいので、いろんな流派から様々な主張がされました。古代ギリシャの自然哲学者はかなり人数が多いのですが、簡単に紹介していきます。

 

(*見方 「人名」(生没年)/ 「その哲学者の有名な主張を表す表現」)

 

 

ミレトス派(ミレトスはギリシャの地名で、ミレトス出身の学者たちのこと)

 

タレス(B.C.624-564頃)/「万物の根源は水である」

アリストテレスが哲学の創始として名を上げるのがタレスです。これまで神話(ギリシャ語でミュトス)を中心に自然を考えていたギリシャで、合理的な視点で自然を語ろうとした人物です。

タレスはエジプトからギリシャ幾何学を導入しており、「半円に内接する角は直角である」と言う定理はタレスによるものだそうです。この点からもとても合理的な人だったことがわかりますね。

なぜ万物の根源は水であると言ったのかについての理由はわかっていませんが、自然を循環する水をイメージするとわかりやすいかも知れません。

 

 

アナクシマンドロス(B.C.610-546頃)/「万物の根源は無際限者(ト・アペイロン

)である」

タレスの水はわかりやすかったけど、いきなり「無際限者」って何?と思いますよね。

神様みたいな言い方にも聞こえますが、この無際限者と言うのはかなり消極的な思想です。

その主張は、万物の根源を何か特定の一つのものに規定してしまうと、その反対のものは存在できなくなってしまうということです。

例えば、万物の根源は水であるとすると、火の存在が消えてしまうことになる。

だから、世界はそうした際限のないものから構成されていないと、いろんなものが一緒に存在することができないというのがアナクシマンドロスの考えです。

その際限のないものを「無際限者」と呼んだのですが、その実態は何らかの物質であると言うこと以外にはよくわかっていません。とにかく、何か限定されたものから世界の根源を考えることはできないという主張が、彼の思想のオリジナリティーです。

 

 

 

アナクシメネス(B.C.588-524頃)/「万物の根源は空気である」

あ、また物質的なものに戻ったぞ!と思いますが、どうやらアナクシメネスは、先ほどのアナクシマンドロスの「無際限者」を物質で表してみたら「空気」こそがふさわしいとの発想で、この主張をしたそうです。

その空気が濃縮されたり、希薄になったりすることから、様々な自然が生じると考えました(ちょっとイメージはしづらい)。

 

 

この三者の思想はどれも「一元論」と呼ばれる立場にあります。

つまり、世界の根源をただ一つの何かに求めているのです(アナクシマンドロスも、「無際限者」のみが根源であると考えるので一元論です)。

しかしこの思想は、当時ギリシャで信じられていた神話の多神教とは相容れないものがありました。ギリシャ神話には多くの神々が登場し、それぞれが何らかの生みの親となっていたからです。

 

 

エレア派

 

クセノファネス(B.C.565-470頃)

クセノファネスは、この対立に対して明確に表現しました。多神教に反対し、神は唯一一体のものであると考え、汎神論的な立場をとりました。

*汎神論とは、神と自然は一体であるという考え方(人格神ではない)

ここから、ミレトス派をさらに推し進めた一元論が展開されることになります。

 

パルメニデス(B.C.540頃)/「あるものはある、ないものはない」

パルメニデスはエレア派の創始者で、クセノファネスの宗教的な思想を形而上学へと展開させました。彼は哲学史上で初めて「存在」について語った哲学者と言われています。存在は始まりも終わりもない、不変不動で絶対的であり、それは空間を満たす物質的なものの一つとして考えられました(彼によれば空虚も非存在)。

 

 

ゼノン(B.C.490-430)

ゼノンは、パルメニデスを批判する人々を論破しようと試みました。

その方法は、自分の主張したいことと反対のことを仮定し、それが自家撞着に陥ることを利用して、自らの正当性を主張するというもので、「ゼノンのパラドクス」として有名です。(ex.アキレスと亀や飛び矢の問題など、長くなるのでここでは割愛します)

 

 

ヘラクレイトス(B.C.535-475)/「万物は流転する(パンタ・レイ)」

ヘラクレイトスは、すべてのものはありかつあらぬ、と言いました。つまり、私たちは常に変化し続けるので、今の私と次の瞬間の私ではもう全く同じものとは言えなくなっているということです。この変化をもたらす根源を、彼は「火」であると捉えました。

常に世界は変化しているものの、何かそこに変化していないものがないと変化に気づくことはできません。その恒常性を持ったものがすなわち「生成変化の法則」であり、彼はこれを「ロゴス(ギリシャ語で理性という意味)」と呼びました。 世界は神でも人間でもなく、ロゴスが支配しているのです。

また、世界はどのように変化していくかについてヘラクレイトスは「争い」だと考えました。つまりお互い対立して、強いものが勝ち残っていくことが、世界の変化をもたらし、世界を作り上げていると言います。この克己を賛美する姿勢は後の哲学者ニーチェも高く評価しました。

 

 

 

 

さて、ここにきて②のエレア派と、③のヘラクレイトスの立場を見てみると、

世界の根源として一元論を取っている点では両者ともに位置していますが、「存在」については対立する点があります。

エレア派は、不動で唯一の絶対的な存在者を想定しましたが、ヘラクレイトスはその逆で、すべては変化していくので、絶対的な存在は認められないとしました。

以降、この両者の対立の調停に挑戦する哲学者たちが現れることになります。

 

 

(長い記事を分けるため一旦ここで終了!続きは#1−2です!)

 

 

 

表現の自由とは

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

毎日暑くて寝苦しい夜(寝室にクーラー無い)が続いておりますが、明日にも台風が来ると言うことで、ますます湿気がすごくなりそうだと軽く怯えております..

この季節に冷房なしで窓締め切って寝られるのかしら。気温下がってくれ〜

 

 

 

 

 

さて、書きたいことはたくさんあるのですが、最近はなかなかゆっくり書く時間が取れずブログも久しぶりの更新です。

今日はこの間話題になった(というかずっと昔から言われていることですが)

表現の自由について。

税金を使って国に対するアンチを込めたような展示会を開催していいのかという話です。結局展示会は中止されて、日本における表現の自由がないことが証明されたというような報道もされておりましたが...

 

 

 

でも表現の自由ってかなり哲学的に考えても難しい問題なんですよね。

「人を殺してはいけない」などのかなり多くの人が共通して持っていると思われる感覚とは全然違って、人によってかなり考え方に個人差が出てくると思います。

 

 

 

 

まず、芸術に対して全然興味ない人にとっては、この自由の保護はあってもなくても興味がないことかもしれませんし、日本のJ-popみたいに、政治色を出さない、ある意味平和な芸術だけがあればいいと思っている人も多いでしょう。芸術は人を嫌な思いにさせるものではなく、楽しいくさせるものだと。

 

 

 

 

確かにこれも一理あるのですけれども、やはり芸術好きからしたら、みんながハッピーになるだけの芸術なんて面白くないとも思うわけです。

芸術家にとって表現することは、本当に呼吸と同じくらい大切な、なくてはならないものですし、嫌だったこととか、苦しみとか、怒りとか、そういうものを命がけでぶつけているからこそ人の心を揺さぶる作品も生まれてきます。

芸術によって、自分の世界を表現することでなんとか気持ちを保って生きていけているという人も実際に何人か知っています。

 

 

 

 

私としては、表現の自由が、まずこの芸術に真剣に向き合っている人に対する保護になってほしいと思います。単に目の前の表現を守るだけでなく、その人自身を守るような。これは芸術家にとっては基本的人権になりうるのではないでしょうか。

 

 

 

 

アメリカなんかでは特に表現の自由が日本よりも許されてるので、ジャズミュージシャンでも普通に政治色が強い作品をたくさんリリースしています。逆に規制できない分、ヘイトスピーチなどもかなり問題となってはいますが、表現することがダイレクトに生命力につながるという考え方はしっかりあるがゆえに、色んな表現が許されているのかなと思ったり。それに比べて日本の音楽やアートの市場、特に大衆迎合的ではない前衛的な芸術に対する関心がまだまだ小さい気がします。アーティストの海外移住はよく聞きますしね...

 

 

 

 

この間この表現の自由について大学の先生と話していたのですが、その時に、

表現の自由って、表現だけの問題ではないという話になって、これがとても興味深かったです。

というのも、表現それ自体が悪いというよりも、表現するに到るまでの目的だったり、表現の仕方とか、もっとモラル的なことが問われているのではということです。

例えば、昔いじめられていた経験を絵画に昇華する時、

・自分をいじめてきた憎いある個人が特定できるような表現で、気持ちをぶつける

・いじめという概念そのものに対する憎しみをぶつける

という二者では、まるで違うように思います。

 

 

 

 

前者は、表現の自由を利用した個人的な攻撃になってしまっている時点で、これは相手を物理的に殴ることとあまり変わらないか、それ以上にダメージを与えるものです。

公共の場で喧嘩が起こっていたら周りの人が止めるのと同じで、これは自由といえども公共の場に提示していいとは考えにくいです。

後者のように、一般概念化したり、何かワンクッションがあるだけで、全然意味合いが変わってきますよね。

 

 

 

 

言葉の討論の場でも一緒のことで、同じ意味のことを言っていても、言い回しとか、話の対象によって随分印象が違います。それが品の良さの違いなのかなと思ったりもするのですが。

 

 

 

 

 

で、今回の展示会取りやめについての話に戻りますと、私としてはまず、表現した人がどういう意図を持って作品を作り、何を伝えたかったのかがよくわからない限り、その作品に対して批判もできないという立場をとりたいと思います。

おそらく日本の過去の戦争についての表現があったために取りやめになったのですが、個人的にはなんで取りやめられたかがよくわかりません。

慰安婦についての事実があったということを芸術作品を通して知ることも一つの学びだと思うのですが、それが芸術作品だから困難に避難を浴びているのでしょうか、じゃあ歴史的資料だったら問題ないのか?そもそも慰安婦についてのことに触れること自体がタブーなのでしょうか?

 

 

 

 

なんで展示会を途中中止までしなければならなかったんだろうというのも疑問です。

脅迫があったのでということで、それは仕方ないと思うのですが、

もし仮にひどく下品な作品が展示されていたとして、それを後から「あの作品は最悪でした」っていう評価が増えていった方が、展示をしないよりも、そうした下品な作品が減っていく理由になりそうですよね。

きちんと作品を見て、評価を下した上で次の展開につなげていかないと、本当に私たちに必要とされている芸術も見えてこないような...そんな気がします。

 

 

 

 

 

今回の件について私自身もしっかり調べられてはいないのですが、なぜそこまで反発されたのかがいまいち理解できていません。

右寄りの方々が、税金ということに引っかかって意見しやすくなっているということはあると思うのですが...

 

 

 

 

 

今は西洋の思想や国家体制について主に勉強していますが、ちゃんと日本についての知識も入れていく必要があるなと改めて思いました。

年齢重ねるごとに、この国について、ますます自分には関係ないとは思えなくなってくる状況がどんどん近づいている、そんな感じがします。

 

 

 

 

経験の説得力

 

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

 

「経験者は語る」と言う表題の後には必ず、なるほど〜と納得してしまうように、経験の途轍もない説得力を実感したことがある人は多いと思います。

 

 

 

 

私もその一人で、いろんな経験をした人の話を聞くのが大好きです。そして、自分に説得力を持たせるために、いろんなことを経験したいというようなことをこのブログにも書いていた気がします。

 

 

 

経験って本当にいろんな意味で強いんですよ。哲学においても、「知覚」(これは哲学においては経験を表す代表的な言葉です)は人間の根源的な活動の一種で、これについて様々な議論がなされるほどにとても重要なターム。

 

 

 

 

哲学的な思考もかなり経験論に寄っていた私ですが、なんだか最近気が変わってきまして。経験って、それだけじゃ使い物にならなくないか?っていうお話です。

 

 

 

 

もちろん、経験それ自体は(言い方悪いですが)とても価値のあるものだと思っていて、どれだけ難しい様々な理論よりも、たった一回の経験がめちゃくちゃヘビーだったりもするわけですが、

要するに大切なことって、経験して何を学んだかってことなんですよね(ようやく気がついたか)。

 

 

 

 

例えば、どれだけ有名なジャズミュージシャンのライブを聴いてきたといっても、その人の耳や感性にどれだけ影響を与えたか、もしくは与えなかったのかというその人自身の学びがなければ、その経験はとても空虚なものになってしまう気がします。

本当にすごい良いライブにいった!と感じて話している人からはその感動が言葉や表情から伝わってきます。話を聞いているこっちもワクワクする時さえあります。

でも逆に、そのライブに「行った」ということそれ自体に執着している人の話は、当時の様子がわかったりしてそれはそれで面白いのですが、説得力という面では正直とてもつまらないのです。表面的で、まるで歴史の教科書を読んでいるかのような感覚。

 

 

 

 

 

 

でも、世の中では結構「経験それ自体」に価値が付随していることが頻発していると思うんですよね...

SNS上の「ディズニーランド行ってきたよ!」って投稿に対するイイねと、

「ディズニー行ってきた!めちゃ楽しかった〜」って投稿に対するイイねって、一見似ているけれども、全然質が違うように思いませんか(私だけかしら)?

後者は経験を踏まえた上での感想が述べられているので、それに対してのイイね(つまり共感です)ってわかるんだけれど、前者はちょっと微妙。

 

 

 

 

前者は、ディズニー行く=最高に楽しいっていう推測のもとでイイねしているにしても、他人の経験に勝手に前提つけてしまっていいのか?とも若干思いますし、本当に単にディズニーに行っただけでは何もないですよ。自分のいる場所が物理的に変わっているだけで。

経験を通して感じたり、考えたりするという大切な部分を抜かして、経験に対してだけ羨ましく思ったり、めちゃくちゃ価値を置いたりするのって結構危険だと思うんだけどなぁ。

 

 

 

 

 

これは自分自身にも言えることだけれど、経験したからってそれだけでは説得力ないです。そこからリアルに感じたこと、学んだことを頭で整理して、何かに応用できるようになったとき、初めて説得力が生まれてくるんだと思います。

「経験してきた人間」ではなく「経験から学んできた人間」になりたいものですねぇ。

ルサンチマン

 

 

どうも。燦太郎です。

 

 

 

 

最近、私の周りをずっとぐるぐる回っている言葉、それがルサンチマンです。

哲学者ニーチェが使ったことで有名な言葉ですね。邦訳では怨恨。わかりやすく言うと、恨み、つらみのことです。

 

 

 

 

人間が人間に対して起こす悲劇の95%はルサンチマンが原因なのではないかと思うのです。

ニーチェの言う奴隷道徳ももちろんそうですが、私が今研究している全体主義におけるユダヤ人の排斥だったり、ニュースになっている京都アニメーションの放火だったり。

本当に、ダークな感情というのは恐ろしい程の力を人間に与えるのだと改めて戦慄します。

 

 

 

感情が原因の行動というのは良い場合でも悪い場合でも、その原因が感情であるので、

ある程度一般理論化できたとしても、みんながみんな理解できる理屈に落とし込めません。 

マッチを擦ったら火が出る、といった具合にどんな人間にも当てはまる理論が感情にはないのです(このことこそ、人文科学を学ぶ意味を表していると思います)。

 

 

 

 

今回の京アニの事件でも、ニュースでは現段階では建物の構造とか、火の回り方などが中心に放送されていて、これから犯人の動機について詳しく報道してもらうことを期待します。

そして、この人物は異常者です、だけで終わらせてほしくない。

今回のみならず、犯罪者に対する世間の態度で、精神異常だったとか、自分は理解できないことは病気かなにかに落としこめるのをよく見ますが、それは何の解決にもならないのではないかという疑問が以前からあります。

 

 

 

 

以前テレビ番組で、自ら殺人を犯しそうになったけれども、カウンセラーの方の一言で殺意が収まったという人の特集を見ました。その方はごく普通のサラリーマンで、当時はうつ気味でしたが、特別な精神病などを患っていない人本当に普通の人でした。

他人事のように思うかもしれないけれど、実際周りにそういう人って少なからずいるのではないでしょうか。

 

 

 

 

人に対してムカついたり、恨んだり、そういう感情は誰にでもあります。

その度合いは人それぞれ違うのです。みんな一律なんてありえません。

そういう違いを理解して、単に精神異常として排斥するのではなく、どうしたらその感情が少しでも和らぐのかということを一人一人が少しでも考えて行動していけば、自分の身の回りにある犯罪の芽を潰すことができるかもしれないと、私は割と真剣に考えているのです。

 

 

 

 

もちろん、全員が精神カウンセラーにはなれませんし、なるべきとも思いません。

ただ、他人を自分と同じ感覚のフィルターで通しすぎると、他人の存在そのものを否定することになりかねませんし、

それがつもり積もると、社会からの疎外が生じて、社会に対する恨みから大きな犯罪を犯すケースはありそうです。

 

 

 

 

大袈裟かもしれませんが、たった一言で殺意が芽生えたり、逆に犯罪の抑止力になったりするわけですから、「この人は自分と違うな」と気づいたその後の行動というのが、私達に試されているように感じてしまいます。

 

 

 

 

当然、私は犯罪者を完全に擁護しようとは思っていませんし、適切に罰するべきです。

何が何でも、無罪の人を殺すのは間違っています。殺して良い理由がないからです。

ましてや、多くの人に生きる希望を与えてきた才能あるアニメーターの方々を殺すなんて、本当に信じられません。

 

 

 

 

でもこれは、信じられないほどに、人間のルサンチマンも恐ろしいという1つの暗示なのだと思います。

そして今回の事件を受けて私達は、表面的な犯罪抑止だけではなく、人間の感情という根本に立ち返って、もう一度しっかりと考える必要があるのではないでしょうか。